木下ねねさんちの高台寺を知る①


ねねの眠る高台寺の霊屋(おたまや)
30年ほど前までは高台寺って、
一般ではみられない場所でした。
母は中高のころ茶道部に在籍していて、
ここの茶席でお稽古で行っていたとか。
それでも高台寺蒔絵の遺る霊屋は、
茶道の縁で特別に見せていただいたそうです。

いつも人人人で溢れている高台寺も、
紅葉真っ盛りなのに庫裏を人影なく
カメラに収めることができました。

霊屋の前には ゆる〜い秀吉 と ねね、
四百年大遠忌にあたるというのです。
北政所を"ねね"と呼ぶことに、
かつて異論が唱えられたことがありました
「豊臣秀吉の正室、名はおね、
 おねゝは誤伝」
とされた…
彼女自身が書いた手紙に「ね」と
署名しているものが見つかり、
本名は「ね」で、
親しみを込めて「おね」…
歴史学者の角田文衞さんによれば
「署名に自分の頭文字だけ書く例は
 他にも多く見られ、合わせて
 鎌倉時代から江戸時代までの
 女性名で『ね』という名前は
 他に一例もないが、
 『ねね』なら鎌倉時代から一般的に
 使われていたことが確認される」

高台寺でもありますので
"ねねさま”と呼ばせていただきます。

高台寺のホームページには
高台寺蒔絵このように解説されています。
「優美でありながら
 斬新さを感じさせる蒔絵で、
 黒漆を背景にして金の平蒔絵に
 絵梨地(えなしじ) 針描(はりがき)
 描割(かきわり) 付描(つけがき)
 といった技法が組み合わされました。」と。

内陣は中央に須弥壇を設け、
その左右に秀吉と高台院の木造を
安置する厨子が収められています。
須弥壇の柱、長押、登勾欄(こうらん)には
笛、鼓胴、琵琶、笙、太鼓に
天衣を絡ませた楽器散らしの意匠。

須弥壇の階段、見附、床板には
桜川の花筏の蒔絵

高台院の厨子扉は表裏ともに
松に篠竹、雲層に桐紋
ただ高台寺蒔絵は蒔絵の本流ではなく
室町期の蒔絵の意匠は説明的なもの、
いわば文学的背景を持っているのに比し、
近世初頭に忽然と現れた存在でした。

こちら秀吉厨子扉表
天下の覇者としての権力誇示に
大城郭を築き黒と金の蒔絵と
極彩色の障壁画で飾る…
豪壮な天下人の意気を強調、
その意匠には
簡明直截(かんめいちょくせつ)
なものが求められたのでしょう。
秋草という主題は、
背景をまったく省略した日本人ならば、
すぐ理解できるものとしたと思われます。

※簡明直截とは?
 簡潔で理解しやすいこと。
「簡明」は簡潔でわかりやすいこと。
「直截」は迷わずに決裁すること。

観月台から開山堂

そして開山堂から

臥龍廊から

御霊屋への正式なルートは
この階段を昇っていくのです。

霊屋は1605年(慶長10)の建立の
宝形造(ほうぎょうづくり)、
檜皮葺の建物です。
霊屋は"ねねさん"のお墓なので、
実際にねねさん の像の下には、
遺体が眠っておられるのです。

霊屋のなかで正面からは像が
見えにくい構造になっているのは、
身分の違いからなのだそうです。




北政所の高台院厨子扉の内面
ちなみに"高台寺"は高台院の墓所
があるということに合わせて、
高い場所にあることから
名付けられているとも…

秀吉の方は裏に菊と紅葉と
桐紋が散らされています。
作者は幸阿弥 長晏(ちょうあん)と
みられています。
ねねも秀吉も穏やかな美しい作で、
この御霊屋にあっては、
清洲の新婚時代を思わせる仲睦まじい
時間を取り戻しているかのよう。

秀吉の未亡人である 北政所への扱い、
豊臣家が関ヶ原以後も慕う大名が
まだ全国各地にあったのも理由の一つ。
ただ、家康は ねねさんを
一人の人間として尊敬し、
戦国の友として心を通じさせていた、

そんなワケにも思いを馳せたいと…

こちら北政所の甥 木下長嘯子
少年時代から秀吉に仕え、
関ケ原の戦において伏見城の
留守を預かったが…
三成の挙兵をみて任務放棄。
その後 京都東山の地で遁世。
木下家をことのほか大事にしていた
ねねさんの血縁については、
家康は黙認していたと伝わります。


高台寺蒔絵の話しに戻ります。
少し前の京都新聞の記事…
厖大な量の蒔絵を求められた時代、
制作急ぐ理由あった」とある。
技法はより簡潔であらねばならなかった、
短時間に大量に製作しなければなない
という必須条件が課せらていたのです。

大量の調度類、建築用材をにまで
蒔絵を施すという大事業。
当時の蒔絵界をリードしていた幸阿弥家
秀逸な意匠、簡潔な技法こそ、
仕事の主流であった伝統的蒔絵、
"高台寺蒔絵"の魅力を認めて、
総力を傾けることができた
のも
幸阿弥家のなせる技
だったのかも知れません。

幸阿弥家の工房では、
棟梁がおおよその意匠を決め、
小頭が下絵を描き、工人が蒔絵する。
幸阿弥一門では手不足の場合、
京の町蒔絵を動員しても差し支えない
という秀吉の命令書があったのだとか…


高台寺には"恋人の聖地"

縁結びの二人の像

高台寺を創建の1606年、
北政所ねねが日頃崇拝していた
綱敷天満宮の祭神菅原道真公を勧請、
高台寺の鎮守社とした高台寺天満宮

開運・出世・健康長寿・災難厄除など

そして恋愛成就♡も!

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