あずまくだりんvol.7 横須賀の走水神社へ


日本武尊がこの地から
房総半島に船で渡った
際に、
船の速さを「水走る」と
表現したことが地名の由来…

村民が日本武尊より賜った
「冠」を石櫃に納め、
社殿を建て日本武尊を祀った…
御后の弟橘媛命 二柱が御祭神。

古代の東海道は、相模の鎌倉、逗子、
そして葉山から三浦半島を横断、
ここ走水付近から上総国のある
房総半島に渡る
というルートでした。

弟橘媛命の"舵の碑"
(おとたちばなひめのみこと)

上総国へ軍船でいっきに渡ろうと
船出された日本武尊、
突然強い風が吹き海は荒れ狂い
波にもまれ転覆するかの危機に…
「このように海が荒れ狂うのは、
 海の神の荒ぶる心のなせること、
 尊様のお命にかえて
 海に入らせて下さい。」
と告げ、
海中に身を投じられました。

「さねさし さがむのおぬにもゆるひの
 ほなかにたちて とひしきみはも」

との御歌が残ります。

本殿裏手の"弟橘媛命記念碑"へ

1910年(明治43)6月5日建立、
弟橘媛命の今際の御歌を刻す。
東郷平八郎 以下発起人7名の名、
除幕式にも参列したそうです。
高さは4.2メートルある伊豆石
走水港で陸揚げされたとか。

蝦夷を討ち平らげて大和に帰る途中、
碓氷峠から遥か東方に光る
走水の海の輝きを望み、
その海に身を投じた媛を偲び
「あ~吾が妻よ」
嘆き呼びかけられたとか。
これをもって東国は吾妻"アズマ"といふ。

日本武尊と弟橘媛命の御所があった
御所が崎に社を建て、
弟橘媛命が入水され流れ着いた
櫛を納め"橘神社"としましたが、
1885年(明治18)に御所が崎が
軍用地となったことを契機に、
走水神社の境内に移され合祀。

本殿右脇にある"露国機械水雷"
横須賀鎮守府から奉納されたもので、
これももとは橘神社にあったもの。

稲荷神社

そして"水神社"の青い幟が立つ。
走水の里は昔から水が豊か、
神社の裏山にあった清流には、
どんな日照りが続いても涸れることなく、
カッパが暮らしていました。
"カッパのいたずら"の行ないは、
走水の地でもかわりませんでした。
困り果て、いつかカッパ達を
こらしめてやろうと…
そんなある日のこと、
突然に地鳴りがごぅごぅと
村の長が「津波が来るぞ~~。
船をあげて、神社の裏山に逃げろ」


カッパ達が山の上から大きな岩を
ゴロゴロ押して浜まで運び、
海岸に沿って大きな堤防をつくり、
一匹のこらず水の中に入り、
岩を押さえて津波から村を守ろうと。
おかげで、走水の村は津波の被害に
あわずにすんだそうです。
カッパ達は一匹残らず津波の犠牲に…


いつ、だれが祀ったのか???
楠の木の根元に河童大明神
祀られるようになったとさ…

"弟橘媛命記念碑"をさらに登ると。

神明社、須賀神社、諏訪神社
祀られていました。
神明社は天照大御神
須賀神社は須佐之男命
諏訪神社の御祭神は建御名方神

神明社は伊勢山崎、
諏訪神社は御所が崎、
須賀神社は走水神社、
1885年からこの地にて。

その近くには"古代稲荷社"、
日本武尊の一行の東征成功祈願は、
この地だったたと伝えられています。

かなり高い位置にありました。

石段を下りると御神輿

夏季例祭は7月18日~23日、
氏子さんたちが準備をされていました。
ちなみに本祭りは隔年
執り行われるそうで、
コロナ禍もあって久々なのかも…

こちら道すがら…走水の山車
山鉾形式、総欅づくりで
山形の飾り台の上には
天降る神の目印として、
ホコやナギナタが立てられる。
もとは屋根の上に6尺(約1.8m)の
日本武尊の人形があったとか。

前後左右に彫刻が施されていて、
武州金沢の彫師 後藤忠造の刻銘。



走水神社へのアクセス
 京急馬堀海岸駅からバス「観音崎行」
 JR横須賀駅からバス「観音崎行」
 いずれも走水神社バス停すぐ

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