TAROとOSAKA
岡本太郎と大阪といえば、
"太陽の塔"が圧倒すぎて…
代表作かつ最大規模の「作品」、
疑いのないTAROとOSAKAの幹。
ただ1970大阪万博だけではない、
岡本太郎と大阪の物語。
《大阪 道頓堀》1957
慶應義塾普通部在学中に
大阪に滞在した記憶、
『芸術新潮』で連載、
『日本再発見藝術風土記』。
さまざまな地方へ赴き、
風習や文化などを取材の
シリーズに"大阪"が
登場しているのです。
《敗戦の歎き》
ただ1970大阪万博だけではない、
岡本太郎と大阪の物語。
《大阪 道頓堀》1957
慶應義塾普通部在学中に
大阪に滞在した記憶、
『芸術新潮』で連載、
『日本再発見藝術風土記』。
さまざまな地方へ赴き、
風習や文化などを取材の
シリーズに"大阪"が
登場しているのです。
《敗戦の歎き》
1925 水彩・紙
川崎市岡本太郎美術館
ボートレースの対抗試合に
敗れたことが題材。
同題文とともに同人誌に掲載、
同級生で小説家の野口冨士男の
もとにあったもの。
「スタイル、
そして精神においての筋が、
人生の初めから
貫かれていたということに
驚く」のちの太郎のコトバ。
《大阪 問屋街》1957
戦後『藝術風土記』取材で
再び大阪を訪問。
「ここまで
風土記をやってきたけれど、
こんな空虚なのははじめてだ」
太郎の辛辣な感想が残る。
《ダンス》(ドローイング)
ボートレースの対抗試合に
敗れたことが題材。
同題文とともに同人誌に掲載、
同級生で小説家の野口冨士男の
もとにあったもの。
「スタイル、
そして精神においての筋が、
人生の初めから
貫かれていたということに
驚く」のちの太郎のコトバ。
《大阪 問屋街》1957
戦後『藝術風土記』取材で
再び大阪を訪問。
「ここまで
風土記をやってきたけれど、
こんな空虚なのははじめてだ」
太郎の辛辣な感想が残る。
《ダンス》(ドローイング)
1952 油彩・カンヴァス
岡本太郎記念館
『藝術風土記』以前の太郎の大阪は、
高島屋大阪店の《ダンス》。
《太陽の神話》
『藝術風土記』以前の太郎の大阪は、
高島屋大阪店の《ダンス》。
《太陽の神話》
1952 モザイクタイル
株式会社 大和証券グループ本社
《太陽の神話》に続くモザイク画、
「滞欧記念岡本太郎」展にて展示。
大食堂に飾られていたもの…
髙島屋東別館内の1階に保管、
大きい作品でそして
タイル画ゆえの重量。
運かすにも費用面でままならず、
長らく眠っていのもの。
「なんばダイニングメゾン」で
復活しています。
消滅球団となった近鉄バファローズの
猛牛マークは1959年に登場したもの。
猛牛の異名を持ち、
親交があった千葉茂選手が
近鉄バファローズの監督に
就任祝で制作されたもの。
「ふとっちょの猛牛が
目をむいて突っ込んでる
愉快なやつ」太郎さん談
ふとっちょ猛牛を提案したのかは
《太陽の神話》に続くモザイク画、
「滞欧記念岡本太郎」展にて展示。
大食堂に飾られていたもの…
髙島屋東別館内の1階に保管、
大きい作品でそして
タイル画ゆえの重量。
運かすにも費用面でままならず、
長らく眠っていのもの。
「なんばダイニングメゾン」で
復活しています。
消滅球団となった近鉄バファローズの
猛牛マークは1959年に登場したもの。
猛牛の異名を持ち、
親交があった千葉茂選手が
近鉄バファローズの監督に
就任祝で制作されたもの。
「ふとっちょの猛牛が
目をむいて突っ込んでる
愉快なやつ」太郎さん談
ふとっちょ猛牛を提案したのかは
今となっては謎に包まれていますが、
秀逸デザインに仕上げるのはサスガです。
こちらは吹田市にあったレストラン、
カーニバルプラザの「リオちゃん」。
巨大レリーフ壁画《みつめあう愛》、
秀逸デザインに仕上げるのはサスガです。
こちらは吹田市にあったレストラン、
カーニバルプラザの「リオちゃん」。
1983年にダスキンが開業…
ただ…
ドローイングや下絵を多く残す
太郎さんなのですが、
このデザインに関しては
資料が残っていないとか。
《マスク》
1970 FRP
川崎市岡本太郎美術館
TAROさんの仮面に通ずるところが
あるように思えます。
1988年にダスキンのTVCMに出演…
巨大レリーフ壁画《みつめあう愛》、
本社ビル外壁に設置されます。
《娘と犬》
複数点同名作品が存在するのも、
太郎さんらしい。
《森の掟》
1950 油彩・カンヴァス
川崎市岡本太郎美術館
ヴェネチア・ビエンナーレ1954年では、
《森の掟》とともに展示。
森なのにチャック付きの巨獣、
ファシズムの寓意との受け取られ方に、
「全然意味の認められない
無邪気な仕事」と太郎さん。
コダワリなく感ずるまま…
TARO鑑賞の肝なのだと思う。