赤備えの陣へ 若江の戦い 壱
近鉄の真田幸村マップを頼りに、
近鉄八尾駅より…若江岩田駅へ。
こちら前半のメイン「高塚地蔵」。
豊臣方の武将がこの地蔵のあった
地蔵堂から槍をもってとび出し、
東軍をおそったが、
かえって討死したとか(T_T)
まずは…近鉄駅より、
アリオ八尾ができたんで、
八尾西武が撤退してしまうとか…
駅前の表情がずいぶん変りました。
萱振寺内町に入ると…
旧街道沿いにお寺がポツポツと。
萱振御坊(かやふりごぼう)とも呼ばれ、
萱振寺内町の中心寺院の
恵光寺(えこうじ)さん。
文明2年(1470)、
蓮如上人の河内布教のあと、
六男の蓮淳(れんじゅん)開基の建立、
今にも残る水路は、
寺内町の濠の名残りとか。
公園に残る道標
「河内名所図会」では
萱振村にありとある
式内社 加津良(かつら)神社。
萱振(かやふり)の地名は、
この神社の祭事のとき
神前で萱の松明を振って、
神を鎮めたことに
由来しているそうです。
1908年(明治41)に
栗栖神社に合祀、
戦後復興されました。
八尾北高校まえに立つ
「萱振一号墳」の碑石。
周囲に幅5mの濠を巡らした
一辺約27mの方墳で、
鎌倉時代に削られたものの、
一辺約27mの方墳で、
鎌倉時代に削られたものの、
多くの埴輪が出土し、
4世紀末頃造られた
4世紀末頃造られた
河内最大の古墳の一つ。
矢を入れる武具をかたどった
靱形埴輪(ゆきがたはにわ)は、
これまでに見つかったものの
これまでに見つかったものの
中では最大の高さ140センチ。
直弧文(ちょっこもん)という
複雑な文様で矢筒部分を飾り、
矢鏃も表現されています。
常設展示されているそうです。
近くにある
八尾市立埋蔵文化財センター。
飛鳥時代の後期のもの、
土馬とか展示されていました。
こちら萱振遺跡出土。
角に立つ高塚地蔵の案内、
かなり狭いフェンス沿いの
大坂夏の陣ののち、
徳川方は武将戦功を
記録しておくため、
討ち取った敵の首を集め、
首の無い戦死者の遺体を
ここに集めて弔ったとか…
キレイに掃除されていますが…
石碑も木の根の隆起で、
かなり傾いていました。
説明には西安3年(1301)の年号、
八尾市内で二番目に古い石仏。
「像容端正、
衣文の線はなだらかで、
摩滅がはなはだしい。」と。
大坂方の吉田内匠が、
槍をもってとび出し、
東軍の藤堂民部をおそったが、
東軍の藤堂民部をおそったが、
かえって討死した場所。
吉田内匠は長宗我部盛親の
家老を務めた人。
慶長20年5月6日の戦いで、
長宗我部勢の斥候※として
約二千人を率いて前進、
霧が晴れた戦場で藤堂隊と
遭遇することになったとか。
鉄砲を持っていなかったため、
藤堂高吉、藤堂式部らの
突入を防ぎきれず、
後戻りができなかったと…。
※ 斥候(せっこう)とは?
敵軍の動静・地形などを
敵軍の動静・地形などを
ひそかに探り監視するために、
部隊から差し向ける少数兵のこと。