ひろしまのへいわ② 丹下のピロティゆドームへ


広島の平和記念公園の中心にある
広島平和記念資料館」は、

堺市生まれ、
日本を代表する建築家の一人、
丹下健三さんの設計である。

平和記念公園そのものも、
丹下案をもとにされています。
その中で実は2等案、3等案では
見向きもされなかった場所、
それが設計を依頼された敷地外、
世界遺産になった原爆ドーム

計画が練られていたころ、
原爆ドームは残すべきか
撤去すべきか議論がわかれていた。
悲惨なものは撤去してくれ
との米国の要請もあったようです。

ただ、
原爆の悲惨さを後世に伝えるためには、
残すべきだと考えてこれを中心に計画。
保存が実現したことは奇跡とも言われた、
そして世界遺産に、
現職大統領も目にすることになった。


まさに十字を切ったような配置。

ピースラインのなかに収めたのである。

祈りの泉」の前には、
彫刻家 本郷新さんの
嵐の中の母子像」。
1959(昭和34)年、
第5回原水爆禁止世界大会で、
当時の広島市長に贈呈を契機に、
広島市婦人会連合会が募金活動。
ブロンズ像として置かれたものです。

水しぶきのなかに神々しくも
輝く姿は毅然とした風格が漂います。

一層だけの軽やかな上階。
国立代々木競技場や
大阪万博のお祭り広場を手がけた
屋根の丹下」さんからすると、
屋根が見当たらない。

東西館と繋がる無骨さ。
これこそが丹下さんが追求の、
モダニズムそのものだったとか。

6メートル50センチという階高。

ただの一層の展示室を
乗せているにすぎない。
重さを支えているのではなく、
平和のゲートとして、
力強いピロティが誘ってくれる。

丹下は人間の尺度を超えた
群衆の尺度を採用したとも。
2万人の市民を迎えるゲートとして、
この大きさが必要だと力説し実現した。



そんなに人がヒロシマに集まるのか、
原爆投下10周年の記念式典には
5万人の人が集い、多くの人たちが
このゲートをくぐったのである。

当初の資料館には、
縦のルーバーの間に
横のルーバーがあったそうが。
それがすっかりなくなっている。

陽射しを遮るためだけではない、
丹下さんの思いがあったと思うが、
紫外線カットのガラスに…

かつてはこのピースラインの先に、
広島市民球場があった。

今はスタンドの一部が残るのみ…
野球好きのボクには、
この先に球場があるのが、
普通だったけれども…

元安橋の西詰にあるレストハウス。

爆心地より600メートル。
コンクリート屋根は大破、内部も炎上。

もとは大正屋呉服店、
戦中は経済統制され県のものに、
1957年には
広島市東部復興事務所とされた。

時代をくぐり抜けた
ヒロシマの証人。

振り返ると
平和の灯ー平和の池ー慰霊碑、
そして資料館…その奥に平和の門。

『丹下健三 一本の鉛筆から』
     にこうある。
「原爆の恐ろしさ、残虐さ、非人間性、
 そうしたことを永久に忘れないために、
 もう二度と人類が原爆を使用しないために、
 このドームはシンボルとして残すべきだ」


※このブログは
丹下健三による「広島平和公園計画」の構想過程
 千代章一郎『広島平和科学』34 2012年
    を参考にしています。

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