秀吉の遺したもの・・・

昨日、、、
フィギュアの
織田信成 さんが先祖が
天下統一の夢果てた地、
本能寺の 信長本廟
必勝祈願に・・・
  というニュースが流れました。








実はこの本能寺。。
信長公の京都での
宿として使われていましたが、
本能寺の僧たちは近隣の寺に
一時的に追い出されていたようです。

ところで 本能寺の変 のあと、
僧侶や信者たちは同じ場所に
立派に再建しようとしたのですが、
1592年 秀吉の命により
今の場所「寺町御池」に建てられました。
もともとは「油小路六角」
    というところにありました。
そこにも碑が立っています。。


実はこの本能寺は平均して
70年に一度燃えている計算になります。
現在の本堂が再建されたのは1928年です。
その時「本能寺」の字のツクリは
「ヒ・ヒ」と続くので、
「去」という字をあてました。。
  効果が続いているようです。
























今 私たちが目にする京都らしい街並みは、
ほとんどが秀吉 本能寺の変 ののち、
お土居を築き町割りをしなおしたものです。
宗派をひとまとめに
呉越同舟的に放り込まれた
「寺町」
は乱暴の極みであったそうです。

気短に急かされた大工事にそこに携わる人たちは、
ずいぶんと大変な思いをしたようで、
『当代記』とうい書物にはこうあります。

「あまりきびしくかせがされので、
 夜になると目が見えなくなり、
 石に当たって身を損なうものがある。
 また病気で仕事に出ないとその主人が
 飯を出さないので、
 乞食をするより他に仕方がない。
 それが京中に充満している」
とあります。

秀吉が一代で栄華を極め、
そして消えていった
には、
いろいろな解説がありますが。。。
豪華さの対極に庶民の苦しみ
  があったことを示すものです。。

1596年(慶長元年)に
  京都で大地震が起きました。
四月に雪が降り、六月には雨がない。。
七月に大雨と、
最後には凶兆と信じられていたという
    彗星まであらわれます。


極みは浅間山の噴煙がなぜか関東になびかず、
京都や伏見にまで灰を降らせたんだそうです。

ある意味 秀吉は信長以上の人物で、
歴史的な経過を見れば思い切って
本当の意味での日本的な
 価値観が変容したかもしれません。

『当代記』にはこうも書かれています。。

「この太閤秀吉公は、
 日本という小国にはどうしてこのような
 知恵者が出たかと思われるほどの人なのに、
 このように庶民の苦労を顧みないで事業を
 つづけるのはどうしたことだろうと、
 人々は不思議に思っているようだ」



成り上がり者 秀吉 の遺したもの、、、
いまも賑わう京都の街は、
秀吉が再編したものだとも言えます。




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