iza KAMAKURAⅡ 北条時宗と元寇のこと


円覚寺の開基廟におられる
北条時宗です。
開基廟は佛日庵御霊屋とも、
円覚寺大檀那である
北條時宗、その子 貞時
孫の高時をお祀りされています。

二度にわたる蒙古襲来という
国難に向かった時宗は、
庵を結び、禅の修行に没頭し、
精神鍛錬に励んだとか。
1284年(弘安7)4月4日に亡くなると、
庵の場所にご遺体を安置、
改めて堂が建てられました。
開山・無学祖元禅師
時宗公の死を大変悲しまれ、
公の人徳を称えられた法語を
『佛光録』に記したと伝わります。

江戸時代の1811年(文化8)改築、
石積基壇上に立ち間口3間ほど、
屋根は茅葺きの寄棟、
屋根の上には箱棟がのります。
土間には高床を張り、
柱の繋ぎは長押を用い、
壁は和様の横板張の仕様。

正面の扉は桟唐戸、
脇間は曲線の花頭窓、
内部天井は鏡天井には扇垂木を
並べた化粧屋根裏の禅宗様です。

絵馬には白鹿に北条三鱗…

開山無学祖元の創建開堂の法話に、
山中から白鹿が出てきて
これに連なったことから、
円覚寺の山号は瑞鹿山
"めでたい鹿のお山"という意。

天保12年(1841年)に編纂された
『新編相模国風土記稿』によれば、
お堂の下に北条時宗公、
その子で9代執権・貞時公、
孫の14代執権・高時公の
遺骨を納めた石櫃があるとか…

境内にある茶室 烟足軒(えんそくけん)、
川端康成の『千羽鶴』
立原正秋の『やぶつばき』に登場。
かつては室町期の佛日庵再興した
鶴穏周音の茶室があったとか。
現在の茶室は東京府農工銀行
頭取でもありのちに政治家となった、
中山佐市邸より移築されたものです。

四畳半下座床の本席に、
玄関と水屋三畳が接続する造り。

燈形の茶道口と貴人口、躙口のほか、
床脇の円窓を含めると
五つの下地窓を開けてあります。

開基廟の前の毛氈で、
一服いただきました…
お菓子は豊島屋の小鳩豆楽

「元軍が日本を襲った元寇は、
 2回とも偶然の
 神風によって救われた」

実はこのような説は
戦後GHQの占領下で作られた
教科書『くにのあゆみ』から…
最近知りました。

《蒙古襲来絵詞》より

神風に救われたとの言説も、
かつては元軍は武士に
負けて撤退を決めたの記録、
元軍側の史料の上でも、
「元軍の副将を射抜いた」
弓矢の飛距離は2倍ほどの差
あったことが記されています。。

《蒙古襲来絵詞》より

2度目の襲来に対する準備も、
北条時宗政権は用意周到。
元軍再来を予測した
全長20kmにも及ぶ土塁をはじめ、
九州の守りを固めていました。

金沢文庫の創設者でもある関靖氏が
こんな言葉を残しています…
「第二次世界大戦は
 第2の国難であり、
 第1の国難である
 “元寇”の教訓に立ち返るべき...」

第二次世界大戦で日本と対峙し、
その強さを恐れたアメリカは、
この言葉と日本の用意周到さを
知っていたそうです。
元寇の勝利を"神風"に委ねて、
自分たちの強さを曖昧模糊に…
再び日本がアメリカの脅威になる。
「日本人の自分の強さ、
 眠ったままにしたかった」

カミカゼを再び吹かせまいと、
GHQは神経を尖らせていた
とか…

ふと苔庭をみると~~
師匠に"難しい話はそこまで!"と、
言われているようにも感じます。
お後がよろしいようで

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