iza KAMAKURAⅡ 鎌倉五山第一建長寺
"臨済宗五山第一建長寺"
そもそも五山とは南宋の皇帝の
寧宗(ねいそう)が定めた寺院の格付け。
ちなみに五つは上の格から順に、
第一位が建長寺、第二位が円覚寺、
第三位が寿福寺、第四位が浄智寺、
第五位が浄妙寺です。
正式には"巨福山建長興国禅寺"、
山号は地名の巨福呂から、
寺号は年号 建長です。
1253年(建長5)、
第5代執権の北条時頼が
宋の高僧 蘭渓道隆を迎えて創建、
日本最初の禅宗専門道場で
幕府と強く結び付きました。
いまの総門は1783年(天明3)に
京都・般舟三昧院で建立されたものを
1940年に移築してきたものです。
"巨福山"とは、大きな福をもたらす寺、
総門、山門、仏殿、法堂、方丈が
一直線に連なる中国の禅宗様式。
1774年(安永4年)、
開山の蘭渓道隆の五百年忌に、
二百一世の万拙碩誼(ばんせつせきぎ)が
再建された山門。
建長寺大工の河内長兵衛が棟梁を務め、
"建長興国禅寺"の大扁額をかけるため、
上層に軒唐破風が設けられたのです。
釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢が
安置され楼上は絵葉書より…、
下を通ると心が清浄になる。
東日本最大の規模を誇っています。
仏殿には建長寺の本尊である
丈六の地蔵菩薩が安置されています。
現在の仏殿は1647年(正保4)、
芝増上寺の崇源院御霊屋の造替で、
譲り受けものです。
崇源院とは徳川秀忠夫人、
お市の方と浅井長政との子、
姉は秀吉側室の淀の方、
仏殿には建長寺の本尊である
丈六の地蔵菩薩が安置されています。
現在の仏殿は1647年(正保4)、
芝増上寺の崇源院御霊屋の造替で、
譲り受けものです。
崇源院とは徳川秀忠夫人、
お市の方と浅井長政との子、
姉は秀吉側室の淀の方、
秀頼に嫁いだ千姫が娘にあたる。
禅宗は釈迦如来なのに、
何故お地蔵様なのでしょうか…
この地は"地獄谷"と呼ばれ、
庶民の風葬の地だったそうです。
鎌倉初期は鎌倉の境界地でもあり、
処刑場であったとも…
地蔵菩薩を本尊とする
"心平寺"があったそうです。
五代執権 北条時頼の俗体武人像、
鎌倉国宝館に寄託されています。
禅はただ自らの努力に懸かっていて、
禅宗は釈迦如来なのに、
何故お地蔵様なのでしょうか…
この地は"地獄谷"と呼ばれ、
庶民の風葬の地だったそうです。
鎌倉初期は鎌倉の境界地でもあり、
処刑場であったとも…
地蔵菩薩を本尊とする
"心平寺"があったそうです。
五代執権 北条時頼の俗体武人像、
鎌倉国宝館に寄託されています。
禅はただ自らの努力に懸かっていて、
武士にとって他者に依存せず、
自分の力で切り開くという点は、
気性に適ったともいわれる。
覚者=仏陀になることを
最終的な目標とするものの、
いくつかの階梯=段階があり、
昇るごとに眼を開かれる…
北条時頼の禅への傾倒は、
この点に理由があるとも言われます。
ではなぜ臨済宗を第一としたのか?
禅をはじめて日本に伝えた人…臨済宗は栄西、曹洞宗は道元。
臨済禅と茶を伝えた栄西、比叡山の僧徒らに阻まれて断念、
鎌倉に向かい源実朝、
北条政子らの帰依を受け、
1200年(正治2)に寿福寺を創建。
道元は入宋して曹洞禅を伝えたが、京都ではやはり弾圧に遭う…
永平寺に棲み教団をつくるに
至らなかったのです。
必ずしも出家を要求せず坐禅を勧め、
ありのままの生活そのものに
禅が行われるように求めるのが、
臨済禅の立場でありました。
「平常心是道」といい、
法然や親鸞の口称念仏の易行とはいえ、
それで精神の平安を得られなければ
意味がない…
禅が難行だから人を寄せつけない、
そうではないことを今の禅寺は、
広く座禅の場を開いていることが、
示しているのだと思います。
"法堂"では千手観音の前の壇に、
修行空けの釈迦像が
座禅を組んでいます。
禅宗では"はっとう"。
昔は建長寺全体が修行道場で、
山内僧侶は法堂に集まり、
住持の説法を聞き、
これを修行の眼目としました。
千手観音の手のひらには
一つずつ目がついており、
千の目を持って衆生の願いを観て、
現世利益をもたらすとされています。
釈迦像はパキスタン政府が、
2005年の愛知万博に陳列、
その後寄贈されたものです。
六年もの長い間苦行を続け、
苦行が理想到達への
真の道ではないことに気がつき、
ナイランジャナー河で身を清め、
セナニー村で長者の娘に
ミルク粥を捧げられ体力を回復。
ミルク粥を布施したのが"スジャータ"…
昔は建長寺全体が修行道場で、
山内僧侶は法堂に集まり、
住持の説法を聞き、
これを修行の眼目としました。
千手観音の手のひらには
一つずつ目がついており、
千の目を持って衆生の願いを観て、
現世利益をもたらすとされています。
釈迦像はパキスタン政府が、
2005年の愛知万博に陳列、
その後寄贈されたものです。
六年もの長い間苦行を続け、
苦行が理想到達への
真の道ではないことに気がつき、
ナイランジャナー河で身を清め、
セナニー村で長者の娘に
ミルク粥を捧げられ体力を回復。
ミルク粥を布施したのが"スジャータ"…
創建750年記念事業により、
日本画家・小泉淳作が描いた雲龍図。
龍は仏の教えを人々に伝えるといわれ、
天井に龍を描くのは修行僧に
「法(教え)の雨を降らす」と…
5本の爪を持つ建長寺の雲龍、
もともと日本の龍の爪は3本で、
朝鮮半島は4本、
古代中国王皇帝のみが
五爪(ごそう)の龍とされていました。
京都建仁寺の天龍も五爪です。
建長寺創建当時の貴重な遺物の梵鐘、
銘文にはこうあります
「建長七年卯乙二月二十一日
本寺大檀那相模守平朝臣時頼
謹勧千人同成大器
建長禅寺住持宋沙門道隆
謹題都勧進監寺僧琳長
大工大和権守物部重光」
"建長禅寺"は日本における"禅寺"初見。
1895年(明治28)9月6日、
夏目漱石は愛媛の『海南新聞』に
「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」。
漱石の知人・正岡子規の
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」、
おなじく『海南新聞』に2ヶ月後の
11月8日に掲載されています。
断然子規の句が多くの人に知られますが、
生涯で2万5000句のうちの一つで、
単なる偶然とされるものの…
漱石にインスパイアされたのだと。
ところで"鎌倉五山"の覚え方…
「犬猿樹上上機嫌」
ケン 建長寺、エン 円覚寺
ジュ 寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
「県庁(建長寺)で演歌(円覚寺)を
十吹く(寿福寺)、
嬢ちゃん(浄智寺)と妙(浄妙寺)な人」
「長い建物(建長寺)で
100円(円覚寺)拾って
福(寿福寺)を得た
上智(浄智寺)大学の妙ちゃん(浄妙寺)」
フツーに覚えた方がよくないか(笑)
日本画家・小泉淳作が描いた雲龍図。
龍は仏の教えを人々に伝えるといわれ、
天井に龍を描くのは修行僧に
「法(教え)の雨を降らす」と…
5本の爪を持つ建長寺の雲龍、
もともと日本の龍の爪は3本で、
朝鮮半島は4本、
古代中国王皇帝のみが
五爪(ごそう)の龍とされていました。
京都建仁寺の天龍も五爪です。
建長寺創建当時の貴重な遺物の梵鐘、
銘文にはこうあります
「建長七年卯乙二月二十一日
本寺大檀那相模守平朝臣時頼
謹勧千人同成大器
建長禅寺住持宋沙門道隆
謹題都勧進監寺僧琳長
大工大和権守物部重光」
"建長禅寺"は日本における"禅寺"初見。
1895年(明治28)9月6日、
夏目漱石は愛媛の『海南新聞』に
「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」。
漱石の知人・正岡子規の
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」、
おなじく『海南新聞』に2ヶ月後の
11月8日に掲載されています。
断然子規の句が多くの人に知られますが、
生涯で2万5000句のうちの一つで、
単なる偶然とされるものの…
漱石にインスパイアされたのだと。
ところで"鎌倉五山"の覚え方…
「犬猿樹上上機嫌」
ケン 建長寺、エン 円覚寺
ジュ 寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
「県庁(建長寺)で演歌(円覚寺)を
十吹く(寿福寺)、
嬢ちゃん(浄智寺)と妙(浄妙寺)な人」
「長い建物(建長寺)で
100円(円覚寺)拾って
福(寿福寺)を得た
上智(浄智寺)大学の妙ちゃん(浄妙寺)」
フツーに覚えた方がよくないか(笑)