四寺廻廊と陸奥の祈り 関山 中尊寺
仙台に足を踏み入れたのだから、
中尊寺には足を伸ばそうと…
いろいろ調べていると、
松島の瑞巌寺、山寺の立石寺、
平泉の中尊寺と毛越寺四寺の
四つの聖地を「四寺廻廊」と呼ぶと。
青もみじに包まれる金色堂、
初夏におとずれたのは初めて。
1度目は中学の修学旅行、
2度目は秋田での学会参加、
3度目は雪道をたどった…
奥州藤原氏初代清衡によって
1124年(天治元)上棟の金色堂。
堂内外金箔押しの「皆金色」の阿弥陀堂、
屋根部分は解体修理の際に金箔の痕跡が
発見できなかったために
箔補てんは見送られたのだとか…
須弥壇の中心の阿弥陀如来は
両脇に観音菩薩と勢至菩薩、
六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を
従えておられる独特の仏像構成。
孔雀デザインの須弥壇の中には、
奥州藤原氏の初代 清衡が中央、
二代基衡が向かって左の壇、
右の壇に三代 秀衡は、
それぞれ金色の棺に納められ、
四代 泰衡の首級は首桶に…
その首桶から発見されたハスの種、
1998年開花成功したそうで、
"中尊寺ハス"として
清楚な花容をみせるとか…
血筋の明らかな、
親子四代の御遺体が存在する
例は世界唯一のことなのです。
白く光る夜光貝の螺鈿細工、
透かし彫り金具や漆蒔絵などなど、
前九年・後三年合戦で亡くなった
生きとし生けるものの霊を
敵味方の別なく慰める…
藤原清衡は「みちのく」といわれ
辺境とされてきた東北地方に、
仏国土を建設するというもの。
こちら旧覆堂…
1288年(正応元年)に鎌倉幕府に
よって建てられたとのこと。
「大切なものを保護するために
かぶせたり、覆ったりするもの」
という意味により古くは"鞘堂"とも。
今はライティングされ、
扉も開け放たれているのですが、
芭蕉も伊達政宗も宮沢賢治も、
そして明治天皇も薄暗いこの堂内に
入り金色堂を参拝したのです…
いまのように光まぶしい金色堂は、
昭和の大修理以降のことで、
旧覆堂は移築されました。
こちら昭和の覆堂に護られた
金色堂の前に立つ昭和天皇の御歌
「みちのくの 昔の力 しのびつつ
まばゆきまでの 金色堂に佇つ」
1970年に岩手国体のときに
平泉を訪れられた…
まさに光堂を体現されたとの御歌。
「五月雨の 降残してや 光堂」
芭蕉の俳句に解説は野暮だが…
何十年、何百年も光堂だけ
五月雨が降り残したように
輝いている とするのが面白い。
ちなみに『おくのほそ道・曽良本』…
「五月雨や 年々ふりて 五百たび」
五百たびとは、光堂創建以来、
五月雨が五百回降ったという意。
それだけの雨が降ったのだ…
当初の句を知ればまた面白い。
宮澤賢治の詩碑
七重(じゅう)の舎利の小塔(こたう)に
蓋(がい)なすや緑(りょく)の燐光
大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
赭(しゃ)のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映(は)えかゞやけり
手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼(らい)して没(き)ゆる
「七重の舎利の小塔」こと金色堂、
そこに大盗が現れて、
膝立ちになって宝塔を拝もうと…
銀のかたびらを身にまとうので、
よほどの大物…
"大盗"の正体については議論があり、
奥州藤原氏を滅ぼした 源頼朝 とも ※…
秀衡が病死すると四代泰衡は、
頼朝の圧力に耐えかね義経を
自害に追い込んだとされます。
しかし源頼朝の鎌倉軍勢は
奥州を攻めるのをやめない。
『吾妻鏡』が伝えるところによる、
頼朝が平泉に入った時、
灰となった町に人影はなかったと…
平泉の寺々の巡礼の頼朝、
仏教文化に感銘を受け、
中尊寺二階大堂にならい
鎌倉に永福寺を建立したとか…
大日堂の御仏たち…
「四寺廻廊」の話に戻します…
9世紀、仏法を求め日本列島、
そして中国大陸を旅した僧・円仁。
慈覚大師円仁は天台宗第三代座主、
世界三大旅行記のひとつ
『入唐求法巡礼行記』は円仁の著。
帰国後の円仁、
830年に出羽を中心とする
東北地方では大きな地震があり、
その救済に尽力するものだったとも…
東北楽天戦を観に東北遠征したのは、
2011年東北大震災のことでした、
今回は3日間滞在でしたが…
せっかくなので"せめて平泉"へと、
下調べすると「四寺廻廊」に
たどり着いたのです。
平泉へは仙台空港からレンタカーで、
瑞巌寺へは2011年とは逆ルートで、
山寺 立石寺には始発 仙山線で…
しばらくは「四寺廻廊」を辿ります。
※『宮沢賢治 文語詩の森』牛崎敏哉など