ウチナー・グスクを征く⑨ 今帰仁城その3


「今帰仁の城 しもなりの九年母
 志慶真乙樽が ぬきゃいはきやい」

城南にある「しげま村」に
乙樽という黒髪の美しい、
見目麗しい乙女がいたとか…
今帰仁御神と呼ばれ、
時の北山王の側室でした。

王妃に子が授かり、
平和な城内のときの頃、
季節はずれの密柑が
実ったことに喩え、
子どもはしゃぐ声に
満ちたときでした。

こちらが「大庭
ウーミャーと読みます。

「城内下之御嶽 ソイツギ」
城内には最も聖なる
御嶽のイベが2つあり、

神名はソイツギノイシズ御イベ
旧暦8月のグスクウイミという
祭礼のときに今帰仁ノロが
五穀豊穣の祈願をする場の一つ。

こちらが北殿跡 ハサミギャー

北殿跡の北側、
一段高いところ「御内原
ウーチナバルと読みます。
女官部屋が置かれ
男子禁制でした。
今帰仁阿応理屋恵という
神女らが居していたところ。

聞得大君の下の高級神女、
三十三君の一人※である
今帰仁阿応理屋恵は、
北山監守の今帰仁按司
阿応理屋恵の子孫が
務めたのだそうです。

琉球王国が成立する前、
三山鼎立という時代が
あったとされています。
最近の研究では、
諸按司の抗争から
形成の小国家だった

理解されています。

山北の滅亡は、
1416年とも1422年とも。
山北王の家来であった
本部平原(もとぶていばら)の
謀反もあって、
中山王の
尚思昭(しょうししょう)が
周辺の按司を組みさせて
今帰仁城に攻め入ったのです。

『琉球国図』には、
首里城は「琉球国都」
今帰仁城は
「伊麻奇時利(イマキジリ)城」
と記されています。

『琉球神道記』
1605年には今鬼神
「今帰仁」という漢字が
当てらたのは近世からのこと。

ウーミャーで
常時水をたたえる
カラウカーという場所。

女官たちが髪を洗ったり、
水量での吉凶占いのスポット。

旧暦7月盆明けの
大折目の際には、
今帰仁ノロ率いる
神人たちの巡礼の場所と
なっていたそうです。



ウーミャーもうひとつの御嶽
「テンチジアマチジ」
沖縄古謡「おもろさうし」に
今帰仁のカナヒヤブ とあり、
テンチジアマチジは俗名、
テンツギノカナヒヤブノオイベ
というのが神名だそうです。

旧暦7月のウブウイミ、
8月のグスクウイミでは、
祭礼が執り行われました。
こんな感じだったとか…

「ウンジャミ」の祭祀
ウーニと呼ばれる
土盛で船漕ぎ。

そしてハサギ跡での
「グスクウイミ」

「トウシンケージ」という
旗をかかげ拝所を廻り、
プイヌモーと呼ばれる
小高い丘より
今帰仁城跡へ向拝。

神ハサギでの
「シマヌウイミ」

神人たちの老齢化もあって、
祭事が簡略化が進み、
古式に則った祭事は
失われているそうです。

ちなみに…三十三君の33
特定の数字ではなく、
多数のことを意味します。
政治的社会的変化に伴って、
変動していったそうです。

ただ33という数字は、
関西でも馴染みのある数。
京都の三十三間堂の33
観音菩薩の衆生の姿が33。
繋がりがあるやも知れませぬ。

※このブログも
 沖縄県今帰仁教育委員会が編纂された
「今帰仁村文化財ガイドブックvol.1
 世界遺産 今帰仁城跡」
を参考にしました。

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