東大寺勧進所と公慶上人
「転害会」に開帳される「東大寺 勧進所」は、
江戸期に雨ざらしとなっていた
大仏の修理、大仏殿の再建のために、
公慶上人(こうけいしょうにん)が建てた、
復興の寺務所だったのだそうです。
東大寺の大伽藍は、平安時代末期の源平の争いで、
平重衡の兵火によって1180年に灰燼に帰します。
この東大寺の復興は俊乗房 重源上人ですが、
その鎌倉期の大伽藍も戦国時代の混乱期、
1567年の「三好・松永の兵火」で焼失。
創建当初の建物はわずか「三月堂」と「二月堂」、
そして「転害門」を残すのみになります。
大仏殿の西側にあります。
「転害会」の手向山八幡宮の祭礼を観て、
二月堂をぐるりとまわってくると、
ほどなく始まっていました。
公慶上人は13歳で東大寺大喜院に入られたが、
自分には傘があるのに、
大仏さまは風雨にさらされたままだと涙し、
ひそかに大仏殿再興の志願をおこされたのだそうです。
37歳となった1684年に、江戸幕府に赴いて、
大仏殿の再興と諸国勧進を訴えて、
ただ、寺社奉行より許可を得たとはいえ、
「勧進は勝手次第だが幕府が援助するものではない」
という実に厳しい条件が出された苦難の再興へ。
堂内での写真はないのでパンフなどのお姿を...
体部は仏師 性慶の手によるものですが、
顔は公慶の弟子 即念が造ったと伝わります。
左眼は充血したように赤くなっているのは、
大仏再興勧進の間の7年の苦行の表れ、
横臥して寝ることなかったと伝わります。
公慶上人のおられる「公慶堂」の開扉は、
2010年から始まったもので、