いざQVCマリンへ その参「オリオンの星」

「カモメの家」レポの続き (・ω・)v

「ホールオブフェイムゾーン」
歴代ユニフォームが並んでいました。
千葉ロッテマリーンズとなった
球団の系譜を辿ってみます・・・・


















永らく「オリオンズ」というチームでした。
この名前は
毎日新聞が新聞紙上で公募したもので、
第5位の「オリオンズ」を選んだのだそうです。
上位は、イーグルス、ライオン、
コンドル、エレファンツなどだったが、
「最も美しく偉大な狩人」と称えられた
ギリシャ神話のオリオンでもあり、
毎日新聞の社章も星であったという事情も
     あったそうです。
















実はこの新聞公募の応募総数は40万通。
球団ニックネームの公募では、
今だに破られていない
ギネス級な数字なのだそうです。




「毎日オリオンズ」























実はセパの2リーグ制となったきっかけは、
千葉ロッテの前身のこのチーム。
1950年に新球団「毎日オリオンズ」
加入問題がことの発端でした。

「読売には毎日」
ジャイアンツに牽制をかけようと
球団増設賛成派と反対派の結果が、
セとパの結成となります。
いまでこそNPBという組織がありますが、
リーグ間には深い溝が刻まれていました。

1950年のシーズンは、
セが「松竹ロビンス」、
パが「毎日オリオンズ」が制したのだが、
喧嘩別れのリーグが改めて雌雄を
決することになったのは、
実は当時のGHQにいたマッカート少将
というヒトの呼びかけによるものだったそうです。
野球好きやったのであえて口出ししたとか。

前年の阪神タイガースは8球団中の6位に、
低迷を理由にエースであり兼任監督であった
若林忠志さんが解任されてしまいます。
これを契機に主砲の別当薫や中堅の土井垣武らの
5選手が毎日に移籍するという事件が起こります。

球団増設によって多くの既存球団には、
似たようなことが起こるのではないかとの
シンパイが募ってきて混沌としたなかに、
「不正引き抜きの一掃」とともに、
「日本シリーズの開催」、
そして「単独のコミッショナーの設置」
   を呼びかけたのだそうです。

最初の日本シリーズは
「日本ワールドシリーズ」と銘打って開催、
GHQが関わっていたことを示しています。



「大毎オリオンズ」























1957年に「高橋ユニオンズ」が消滅し、
パ・リーグは創設時の7球団にとなります。
奇数チームではやりにくのは至極当然。
最下位チームは合併という条件のもとでの
シーズンは「大映ユニオンズ」が消える運命に。
その合併チーム先が「毎日」となり、
チーム名が「大毎オリオンズ」となります。

毎日の「M」
が消えることになるのですが、
時代が巡って千葉で胸の「M」が復活します。


「東京オリオンズ」

1937年に東京都荒川区南千住に
誕生したオリオンズの本拠地が
「東京スタジアム」























3万5000人収容のスタンドは、
内野は総2階建てだったそうです。
当時のサンフランシスコ・ジャイアンツの
本拠地・キャンドルスティックパークが
    モデルなんだそうです。
チーム名が変わったのはあの東京五輪、
地域密着型球団の先駆けだったともいえます。






















1966年に登場したのが
    「桃太郎マーク」

この頃はチームが低迷していたようで、
当時のオーナーが
「日本的で力持ちなもの」との、
意向に応えたもので
もう一案は金太郎だったそうです。


















1965年に読売ジャイアンツに
「ミスター・ジャイアンツ」なる
ペットマークが登場していましたから、
対抗意識の現れだったと見る向きも。
































「ロッテオリオンズ」

映画産業の斜陽とともに親会社の大映は、
1969年に製菓メーカーの「ロッテ」
業務提携を結ぶこととなる。
実はこの年からの球団名は
今でいうネーミングライツやったそうで、
あくまでオーナーは
大映の永田雅一 社長が務めていました。






















1970年にロッテオリオンズは
パ・リーグ優勝を果たすが、
経営危機のなかで大映が撤退、
本拠地東京球場が閉鎖となり、
あの「仙台宮城球場」
準本拠地を置くこととなります。


その後 大洋ホエールズの横浜移転後、
川崎球場に安住の地を得るのは、
1978年のこと・・・・






















こちらにマニアックなアイテムが、
   1980年の前期優勝旗。




















そして千葉へ・・・・・
「千葉ロッテマリーンズ」

ピンクユニ・・・・
あの伊良部とのアンバランスさは
いまにも鮮明に蘇ります。
















ちなみに背番号2は南淵選手のもの?
キャップのCLMってのも奇抜でした。






















そして、再びの「M」の胸文字
























ちなみにこのマリーンズ」ってのも
確か公募して決めたんだけど、
実は一般公募の1位は

「千葉ロッテ・ドルフィンズ」・・・
「D」だとドラゴンズとかぶっちゃう。
当時「千葉マリンスタジアム」だったから、
「マリーンズ」が選ばれたという。























ボビーの頃のギザユニもありました。

ところでこのマリーンズって、
「海(Marinee)」の複数形????
あの
綱島理友 さん疑問に感じ、
球団事務所に
直接問い合わせたことがあるそうです。

「海の勇者」という回答だったそうだ。



















初期のマーくん??
確かにその出っ腹は勇者に違いない。。





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