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iza KAMAKURAⅡ 建長寺と幕府のかかわり

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1333年(元弘3)の北条氏滅亡… 建長寺には大檀那であり、 大きな痛手となりました。 それでも室町幕府の鎌倉府が 相応の機能を持つ室町初期は 余力を残していたよう。 ただその後は伽藍復興叶わずの、 時を刻んだと伝わります。 1591年(天正19)  徳川家康 は寺領約400石を寄進、 ただ 円覚寺・東慶寺 などよりも少なく… 家康重用の 金地院 以心崇伝 が 大覚禅師の法系につらなる僧であり、 建長寺の住山に入ったこともあって 五山第一の寺格が保たれた… そのことを シンボリックに示しているのが、 この" 唐門 "などだとも思います。 方丈を前にする" 唐門 "は、 煌びやかな 桃山風向唐破風 。 三つ葉葵とは違いますが、 六つ葉葵は徳川家裏家紋 とか。 仏殿の 崇源院御霊屋の門 として 1628年に建てられたもので、 方丈の正門として1647年に 移築されたものなのです。 増上寺からの移されたとき、 徳川家の三つ葉葵を付けることを 認められなかったとか、 恐れ多くて裏家紋にしたとか、 諸説あるようです。 2011年に解体修理が施され、 四脚門の技巧を凝らした金具と 漆黒の輝きを取り戻された のです。 "方丈"とは昔は住持が居住する場、 現在は法要・坐禅・研修の 場所として使われています。 総門と同じく京都の 般舟三昧院 より、 1940年に移築されたものです。 方丈は" 龍王殿 "とも呼ばれ、 元は皇室のお位牌を 安置するためのもの だったので、 勅使門 が設えられているのです。 方丈の裏手には 蘸碧池 (さんぺきち) を 中心とした方丈庭園。 中心石を据えて、 長寿のシンボルである 松が植樹されています。 汀線 (ていせん)と呼ぶ 陸地と水面の境目が複雑に… 作庭者は開山の 蘭渓道隆 とも 夢窓国師 ともいわれるのは、 上洛する前の夢窓疎石が 改修したのかということでしょう。 庭園奥に見える“ 得月楼 ”は、 2003年に約600年ぶりに 復興されたものです。 薬医門の形式の" 嵩山門 "を奥入ると、 蘭渓道隆の塔所 として 開山示寂後に創建された、 開山を祀るための最高聖地 " 西来庵 "に至ります… 北条時頼は安達氏と共に 三浦一族 とそ...

iza KAMAKURAⅡ 鎌倉五山第一建長寺

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" 臨済宗五山第一建長寺 " そもそも五山とは南宋の皇帝の 寧宗 (ねいそう)が定めた寺院の格付け。 ちなみに五つは上の格から順に、 第一位が 建長寺 、第二位が 円覚寺 、 第三位が 寿福寺 、第四位が 浄智寺 、 第五位が 浄妙寺 です。 正式には" 巨福山建長興国禅寺 "、 山号は地名の巨福呂から、 寺号は年号 建長です。 1253年(建長5)、 第5代執権の 北条時頼 が 宋の高僧 蘭渓道隆 を迎えて創建、 日本最初の禅宗専門道場で 幕府と強く結び付きました。 いまの総門は1783年(天明3)に 京都・般舟三昧院で建立されたものを 1940年に移築してきたものです。 "巨福山"とは、大きな福をもたらす寺 、 総門、山門、仏殿、法堂、方丈が 一直線に連なる中国の禅宗様式 。 1774年(安永4年)、 開山の 蘭渓道隆 の五百年忌に、 二百一世の 万拙碩誼 (ばんせつせきぎ)が 再建された山門。 建長寺大工の河内長兵衛が棟梁を務め、 " 建長興国禅寺 "の大扁額をかけるため、 上層に軒唐破風 が設けられたのです。 釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢 が 安置され楼上は 絵葉書 より…、 下を通ると心が清浄になる。 東日本最大の規模を誇っています。 仏殿には建長寺の本尊である 丈六の地蔵菩薩 が安置されています。 現在の仏殿は1647年(正保4)、 芝増上寺の崇源院御霊屋の造替で、 譲り受けものです。 崇源院とは徳川秀忠夫人 、 お市の方と浅井長政との子、 姉は秀吉側室の淀の方、 秀頼に嫁いだ千姫が娘にあたる。 禅宗は釈迦如来なのに、 何故お地蔵様なのでしょうか… この地は "地獄谷" と呼ばれ、 庶民の風葬の地だったそうです。 鎌倉初期は鎌倉の境界地でもあり、 処刑場であったとも… 地蔵菩薩を本尊とする "心平寺" があったそうです。 五代執権 北条時頼 の俗体武人像、 鎌倉国宝館 に寄託されています。 禅はただ自らの努力に懸かっていて、 武士にとって他者に依存せず、 自分の力で切り開くという点は、 気性に適ったともいわれる。 覚者=仏陀になることを 最終的な目標とするものの、 いくつかの階梯=段階があり、 昇るごとに眼を開かれる… 北条時頼の禅への...

iza KAMAKURAⅡ 鎌倉五山 円覚興聖禅寺の解脱門

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円覚寺の三門 北条時宗の子 貞時 の時代に 書かれた 伏見上皇 の勅筆、 " 円覚興聖禅寺 "の扁額を掲げる。 鎌倉屈指の山門であり、 神奈川県指定重要文化財 です。 楼上には十一面観音や十二神将、 十六羅漢像が安置されているとか。 現在の山門は1785年(天明5)、 開山の 無学祖元 没後500年の年に 大用国師 により再建されました。 三門の「三」とは 三解脱 , 空、無相、無願を象徴していて、 涅槃の世界である佛殿へと入る前、 諸々執着から"解脱"されるための門 。 " 空 "は万物は因縁によっておこる 仮の相であり実体はないということ。 ブッダの言葉を伝える最古の書 『スッタニパータ』 にも 「 常に、  世界は空であることを観ぜよ 」と。 " 無相 "は事物や現象は非存在であり、 本来は空であるということ。 " 無顔 "は因縁によって 生じたものではなく、 生ずることも滅することもない… 「主人公の宗助は、親友・安井から  内縁の妻・御米を奪い、  その罪の意識から  ひっそりと暮らしていたが、  ある日、大家の板井から  安井の消息を聞いた宗助は心を乱し、  鎌倉の禅寺の門をくぐる」 夏目漱石の『門』 の一節。 神経を病んだ夏目漱石は、 円覚寺塔頭に止宿たそうで、 「山門を入ると、  左右には大きな杉があって、  高く空を遮ぎっているために、  路が急に暗くなった。  その陰気な空気に触れた時、  宗助は世の中と寺の中との  区別を急に覚った。  静かな境内の入口に立った彼は、  始めて風邪を意識する場合に似た  一種の悪寒を催した」 心して三門を通ると、 身体中に貼り付いた 色眼鏡がとれていくというが… 初層内側の重量感のある虹梁、 大瓶束 に見惚れていて… これぞ禅宗様だな〜〜と 感じ入ってしまっていました。 神奈川県の国宝で 唯一間近で見ることのできる 洪鐘 (おおがね)道の石段。 1301年(正安3年)に北条貞時が 国家安泰を祈願して鋳造したもの、 円覚寺の境内は広大過ぎて、 最後に残してしまい、 挫けてしまいました … いつの日か心を落ち着かせて、 ゆっくりと訪ねたいと…

iza KAMAKURAⅡ 北条時宗と元寇のこと

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円覚寺の開基廟 におられる 北条時宗 です。 開基廟は佛日庵御霊屋とも、 円覚寺大檀那 である 北條時宗 、その子 貞時 、 孫の 高時 をお祀りされています。 二度にわたる 蒙古襲来 という 国難に向かった 時宗 は、 庵を結び、禅の修行に没頭し、 精神鍛錬に励んだとか。 1284年(弘安7)4月4日に亡くなると、 庵の場所にご遺体を安置、 改めて堂が建てられました。 開山・ 無学祖元禅師 は 時宗公の死を大変悲しまれ、 公の人徳を称えられた法語を 『佛光録』 に記したと伝わります。 江戸時代の1811年(文化8)改築、 石積基壇上に立ち間口3間ほど、 屋根は茅葺きの寄棟、 屋根の上には 箱棟 がのります。 土間には高床を張り、 柱の繋ぎは長押を用い、 壁は和様の横板張 の仕様。 正面の扉は桟唐戸、 脇間は曲線の花頭窓、 内部天井は鏡天井には扇垂木を 並べた化粧屋根裏の 禅宗様 です。 絵馬には白鹿に北条三鱗… 開山 無学祖元 の創建開堂の法話に、 山中から白鹿が出てきて これに連なったことから、 円覚寺の山号は 瑞鹿山 、 " めでたい鹿のお山 "という意。 天保12年(1841年)に編纂された 『新編相模国風土記稿』 によれば、 お堂の下に 北条時宗 公、 その子で9代執権・ 貞時 公、 孫の14代執権・ 高時 公の 遺骨を納めた石櫃 があるとか… 境内にある茶室 烟足軒 (えんそくけん)、 川端康成の『千羽鶴』 や 立原正秋の『やぶつばき』 に登場。 かつては室町期の佛日庵再興した 鶴穏周音の茶室があったとか。 現在の茶室は 東京府農工銀行 の 頭取でもありのちに政治家となった、 中山佐市邸 より移築されたものです。 四畳半下座床の本席に、 玄関と水屋三畳が接続する造り。 燈形の茶道口と貴人口、躙口のほか、 床脇の円窓を含めると 五つの 下地窓 を開けてあります。 開基廟の前の毛氈で、 一服いただきました… お菓子は 豊島屋の小鳩豆楽 。 「元軍が日本を襲った元寇は、  2回とも偶然の  神風によって救われた」 、 実はこのような説は 戦後GHQの占領下で作られた 教科書『くにのあゆみ』 から… 最近知りました。 《蒙古襲来絵詞》 より 神風に救われたとの言説も、 かつては元軍は武士に 負けて撤退を決めたの記録、 元軍側の史料の上でも、 ...