"吉野をよくみる"その3 聖徳太子と吉野


"吉野をよくみる" 春にいった吉野だけど、
奈良博であった「特別展 吉野・大峯」。
蔵王堂にあった"聖徳太子孝養像"も
お目見えでした。
かなり日があきましたが…

なぜ修験道の聖地である金峯山寺に、
太子像が伝わっているのか。
金峯山寺の池田淳さんによると、
鎌倉時代の1272年、
太子信仰の真言律宗の総本山の
西大寺復興の叡尊(えいそん)が
吉野で布教していたそうです。

太子像内納入品に、
無量寿経と阿弥陀経があり、
その奥書に文永11年(1274)とあり、
造立時期がわかる像となっているのです。
奥書にある釈信道叡尊の弟子とか、
西大寺の造像には、
善派や慶派が関わっており、
像の作者が誰なのかは定かでない。

同時代の聖徳太子像に、
元興寺にある善春作の像。
文永5年(1268)のものとは、
作風は大きく異にしています。

聖徳太子像金峯山寺蔵王堂
向かって右脇中央の間に
安置されていました。
髪を角髪(みずら)と呼ばれる
左右に振り分けに結い、
眉根を寄せ目尻をつり上げた
厳しい表情
を作っているのが
印象的である。
袍(ほう)を着け、
袍の上に袈裟と横被(おうひ)
とよばれる上膊(じょうはく)
を身につけておられます。

蔵王堂では後陣に安置される
脇侍の二童子ですが、
奈良博では太子像と一具として、
展示されていました

こちらが山背大兄王
(やましろのおおえのおう)。

太子俗形御影とも呼ばれる、
ザ・聖徳太子像でも、
山背大兄王が向かって右に。

殖栗王(えぐりおう)は、
太子の弟にあたる人物である。

吉野上千本の竹林院は、
聖徳太子の創建と伝わる寺院。
護摩堂に安置の"伝聖徳太子坐像"、
南北朝時代のものとされ
吉野山伝来の神像三躯のうちのひとつ。

三躯のなかの男神像内に
延宝8年(1680)年に
"世尊寺" 堂宇再興に修理した
旨の墨書があり、
銘記の「天照太神夷聖徳太子」とあり
童形神は聖徳太子とのこと。
のこり一躯はこちら、
男神像は"エビス顔"
袴をはいて右先を前に向けて
安座しており、
何かを持っていたのかも…
男神像は二躯ともに
今は大阪の今宮戎神社に。
吉野山伝来の神像三躯が、
伝聖徳太子を中心に、
三軀が一具を構成していたのか?
定かでは無いようです。

"伝聖徳太子坐像"だけが、
なぜ吉野山に留め置かれたのか?
すでにその所以を示すものは、
残されていないようです。
竹林院は、聖徳太子が黒駒伝説の地、
椿谷の草庵で修行したという
伝承が遺されています。
太子は吉野の地を好んで訪れ、
この地で修行や政治の構想を
練ったとも
されています。

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