2024OKINAWAめもりーず〜中城城へ


2020年沖縄キャンプでは、
名護からさらに足を伸ばし
今帰仁城へ訪れたのですが、
取りこぼし(笑)の本丸首里に近い、
NHKで日本最強の城に選定された
"中城(なかぐすく)城"を初攻略。

14世紀後半頃まで
先中城按司(さきなかぐすくあじ)が
数世代に渡り主な郭を築き上げたもの。
1300年代といえば本土で石垣の
城郭が出現する200年前のこと、
"アジアで最先端のお城"
讃えられる所以です。

駐車場から管理事務所を通ると、
正門までの無料のカートで
上がらせてくれます。

"護佐丸号"にて正門へ…



中城村のキャラクターでもある"護佐丸"、
護佐丸は中城按司護佐丸盛春をいい、
唐名は毛国鼎(もうこくてい)とか。
座喜味城も彼の築城で、
『毛氏先祖由来記』によると、
勝連城主 阿麻和利から中山防御のため、
この地を賜ったとされています。

新城(ミーグスク)と呼ばれる三の郭、
井戸を取り込んだ"北の郭"は、
護佐丸が増築したものです。

伝承によると初代城主は
浦添城 英祖王系二代目の大成王の
五男で勝連按司だと伝わります。
十代目の按司 阿麻和利の時代に、
海外貿易で力をつけていったとか。

時の琉球国王 尚泰久(しょうたいきゅう)、
阿麻和利に脅威をもったことで、
勝連城と首里城の間に位置する
中城城主に王の重臣を配し備えさせた。
その人物こそが護佐丸なのです。
1458年 阿麻和利が勢力拡大を企図、
護佐丸がその乱によって倒されたのです。
その後 首里城を攻めるが、
鬼大城である大城賢雄を総大将とする
首里軍に阿麻和利が討ち滅されたのです。

按司であった護佐丸・阿麻和利が
滅んだことによって、
王府に抵抗できる勢力がなくなり、
琉球王権が安定するキッカケ
に。

"カンジャーガマ" (鍛冶屋跡)
城のためか集落のためか
定かではないのですが、
護佐丸が阿麻和利に備えるために
武具を造っていたとも伝わります。

南西に向きに建てられた正門(櫓門)、
門を挟むようハンダ道(公道)に
石垣がせり出しています。

太平洋戦争末期の1945年、
国内最大の地上戦があったのが中城村。
多くの住民を巻き込んだ地上戦は、
「醜さの極致」すさまじいもの
陣地構築のため駐屯したこともあり、
沖縄戦没者のうち中城村出身者は
5,198名 を数えています。

立地的には好適地であった中城が
なぜ大崩れすることなく遺されたのか。

正門の近くに城壁を取り除いた
部分があるものの…
日本軍が防空壕工事を始めたが、
石垣構造が堅固で作業が難航、
諦めて撤退した
とされています。



城壁に沿って保護のための階段が続く…

実は…足場を支えるボルトナットの
防錆キャップには、
"まもるくん"ってのが
採用されているのです。

枚方市長尾にある 共和ゴム㈱さんの
製品でして2018年に設置されたもの。

共和ゴム㈱の社長は、
同志社香里中高の後輩

寺阪 剛さんなのです。
こちらの護佐丸キャラは、
彼のFacebookからの転載です。
寺阪さん勝手に載せてゴメンよ。
「沖縄に行った際には
 経過観察のため中城城にも
 立ち寄れますので最高です。」

とのこと…
詳しくはニュースレターにて。

南の郭へ

拝所 御當蔵火神(うとうくらひぬかん)
通称 首里遥拝所

拝所 小城ノ御イベ
聖地 久高島への遙拝所。

雨乞いの御嶽

裏門へと…

ペリー探検隊一行がエジプト式と
評した精巧なアーチ。


中城城趾のペリー 一行 1853年
「要塞の資材は、石灰岩であり、
 その石造建築は、
 賞賛すべきものであった。
 石は…非常に注意深く刻まれて
 つなぎ合わされているので、
 漆喰もセメントも何も用いていないが、
 この工事の耐久性を損なうようにも
 思わなかった
」と讃えています。

一の郭には刻印石が発見されています。
2013年で2個見つかったもので、
県内では首里城に次いで2例目。
中城城跡では現在140個の刻印石、
沖縄での刻印の意味するところは、
石工個人か集団が証としてなのか、
構造的に重要な位置を示したのか、
今のところ確実な学説がないとか。


アーチ門から一の郭へ



中城城で最も広い"一の郭"には、
かつて正殿があったそうで、
護佐丸が滅ぼされた後、
中城の地は琉球国王の世継
中城王子の領地となるが、
15世紀後半から17世紀に記録なく
不詳ではあるものの、
出土遺物などから継続し
使われていたことが判っています。

1729年になると一の郭内に
地域行政拠点として"番所"が設置、
1908年の廃藩置県を経て、
中城村役場だったのですが、
役場建物は沖縄戦で焼失しています。

拝所 中森ノ御イベ
着替御嶽(ちげーうたき)とも、
六月ウマチーの時にかつては、
ノロが白衣裳に着替えていたこと
因みます。
旧暦6月15日に行われるウマチーは、
稲の収穫祭でもあり、
添石のノロ殿内によって
今なお拝みが行われています。
ちなみにノロ(祝女)琉球神道
における女性の祭司をさします。

二の郭に入って右側に、
シライ富ノ御イベ

中城城内には御嶽・拝所は8つ、
『琉球国由来記』などに示されますが、
中城城内之殿、ウフガー(大井戸)
重要な拝所として扱われています。

二の郭へ



日露戦役戦没者の忠魂碑
中城グスクとは関係ありません…が
なぜここにあるかというと、
中城グスクが役所として
使われた時代があったからだとか。

一の郭と二の郭の石積みは"布積み"、
豆腐積みとも言われ直方体の加工石を、
一段ごとに高さを揃えて
ブロック状に積み上げています。
門周辺にも布積み技法で、
大きな石が積まれ強固な仕上がり。







曲線美はグスクならではのもの。



石積手法をみていくと、
先中城按司が築いた一の郭・
二の郭・南の郭・西の郭は
"布積"をメインに積まれています。

部分的ではあるが南の郭などで
岩盤の隙間をうめた"野面積"。

野面とは加工していない石をいい、
自然の岩や石をそのまま
組み合わせる技法
なのです。

護佐丸が築いた三の郭・北の郭では、
グスクの石積手法で最も発達した
"相方積"で築かれています。

亀甲乱積みともいう相方積

石を多角形に加工し、
互いに噛み合うように積むことで、
強度と耐久性に富んでいるものです。

三の郭の別名は"ミーグスク"、
新城と呼ばれています。

護佐丸が増築を行ったとき、
奄美群島の与論島や喜界島から
労働力を徴用した
という
伝承も伝わっています。







また来るね!

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