京の冬の旅2022 御影堂門と竹内栖鳳の縁
東本願寺前噴水…
"お東さん"で求めた絵ハガキより。
東本願寺前噴水は、
京都市役所などを設計した
武田五一によって1914年に建築。
周りにある花壇などは、
御影堂の修復工事で廃材となった
瓦を再利用したものだそうです。
大噴水の蓮の部分は、
日本画家の竹内栖鳳のデザイン。
竹内栖鳳(1864-1942)は、
御池油小路の料亭「亀政」の長男。
17歳で四条派の幸野楳嶺に入門、
このときの名は"棲鳳"。
36歳の時である1900年(明治33)、
パリ万国博覧会の視察と
ヨーロッパの絵画事情の調査へ。
当時は「鵺派」とも揶揄されますが、
同一画面に西洋画法を取り入れ、
四条派にとどまらず、
円山派、狩野派なども学んだ人。
「西洋美術を知ることで
かえって東洋美術特有の
技法とか色調とか、
精神を理解することが出来た」と。
伊東忠太とほぼ同世代。
竹内栖鳳は師の幸野楳嶺が
厳如上人と親しかったことから、
東本願寺と関係が深く、
伊東忠太は中国で大谷光瑞探検隊
と遭遇したのが縁で、
西本願寺の建物の設計も
多く手掛けているのです。
西本願寺伝道院のように
強烈な個性を持つ近代建築は、
東本願寺にはみられませんが、
この噴水の斬新さは必見なのです。
いざ御影堂門の楼上へ…
"京の冬の旅2022"ガイドのHPより
釈迦如来像を中央に、
弥勒菩薩像、阿難尊者の三尊、
門をくぐる信者を見守っています。
釈迦三尊の脇侍は定例はなく、
文殊菩薩と普賢菩薩、
梵天と帝釈天、
薬王菩薩と薬上菩薩など…
阿難尊者は釈尊従弟で
十大弟子の一人とされますが、
釈迦如来脇侍とされるのは稀例。
《釈迦如来・阿難像》
鎌倉時代 東京・根津美術館
こちらの仏画は、
清涼寺式釈迦如来が主題…
ただ他に類例がないのだとか。
アーナンダというお名前から、
"阿難"と音写されたのですが、
とても美男子だったそうで、
女性にも人気があり、
その意味で悩みながらの修行…
釈尊涅槃に至るまで
悟りを開けなかったとか。
浄土真宗において正依の経典は、
『大無量寿経』とされていて、
阿難尊者は「多聞第一」…
阿難尊者の合掌する姿は、
"聞法生活"を勧める東本願寺、
まさに相応しき三尊なのです。
こちらは文化財オンラインより…
天井は真白なのはここに、
竹内栖鳳の《飛天舞楽図》が
予定されていたからです。
しかしながら…
最終的に制作されることは
ありませんでした。
下絵にあたる草稿3幅が
遺されています。
京都市美術館で2011年に
公開されていたとか…
美術館の尾﨑眞人によると、
「影堂門の中は、天井までの
高さが約3.8メートルあり、
高さが十分ではないことと、
竹内栖鳳をもってしても
天女の浮遊感を表現するのが
難しかったのではないか」と…
楼上内部でも《飛天舞楽図》
草稿がパネル紹介されていて、
天女の舞う姿がみられました。
御影堂門眼下に蓮の大噴水…
噴水の周辺はバリケードが
多く設置されています。
京都市が整備を進めている
東本願寺前市民緑地整備事業で、
2022年1月中旬より本格的に開始、
樹木整備が進められています。
烏丸通には二箇所歪んだ所があり、
もうひとつは烏丸丸太町の角、
ゆるやかにS字状にカーブ。
2~3メートルほどズレています。
理由は御所に沿っているから…
1914年発行の『京都市三大事業誌』、
明治時代末の道路の拡幅工事、
市電の敷設できる幅に広げたのです。
当時5mしかなかった
「烏丸通の道幅を広げるには、
東か西の土地を市が買い上げて
更地にしなければならない。
だが烏丸通は東側に京都御苑、
西側に東本願寺がある。
どちらの土地も削らないで
済むように通りをずらした
のではないか。」
近代史専門の京都薬科大学
名誉教授の鈴木栄樹さんの解説。
昭和天皇の即位大礼は1928年のこと、
当時の皇室典範では即位の礼は
京都で行うという規定がありました。
京都駅と京都御苑をつなぐ烏丸通は、
行幸道として整備が急がれていました。
門前を市電軌道が敷設する計画でしたが、
「翌年に控えた親鸞の大遠忌には
多くの門信徒が諸国から集まる。
狭い歩道のすぐ脇を頻繁に電車が
往来するのは危険だ」と、
東本願寺が嘆願…
迂回のための土地と建設費は、
東本願寺が寄付するという条件で
計画を変更されたのだそうです。
御影堂門には龍の彫刻がみられます。
火災の多さから「火出し本願寺」…
実は東本願寺が火元となったのは
1823年(文政6)のみ…
大噴水をともに「歩くまち・京都」を
見守ってくれるに違いありません。
近代史専門の京都薬科大学
名誉教授の鈴木栄樹さんの解説。
昭和天皇の即位大礼は1928年のこと、
当時の皇室典範では即位の礼は
京都で行うという規定がありました。
京都駅と京都御苑をつなぐ烏丸通は、
行幸道として整備が急がれていました。
門前を市電軌道が敷設する計画でしたが、
「翌年に控えた親鸞の大遠忌には
多くの門信徒が諸国から集まる。
狭い歩道のすぐ脇を頻繁に電車が
往来するのは危険だ」と、
東本願寺が嘆願…
迂回のための土地と建設費は、
東本願寺が寄付するという条件で
計画を変更されたのだそうです。
御影堂門には龍の彫刻がみられます。
火災の多さから「火出し本願寺」…
実は東本願寺が火元となったのは
1823年(文政6)のみ…
大噴水をともに「歩くまち・京都」を
見守ってくれるに違いありません。