猿田彦のミチを開くvol.6 猿沢の池
「ならまち」に向かう道すがら
ここにも猿田彦神社があります。
創建は平安時代の9世紀初め、
創建は平安時代の9世紀初め、
平城天皇の時代に遡るとされ、
もとは「元興寺」の
元興寺の大火を期に、
再々の火難に遭い、
「住吉神社」がありますが、
猿田彦社は門は開かれており、
道祖神や開運の神、
勝負事にご利益のある
「賽の神」としていまなお
信仰を集めています。
賽の神さまでして、
道祖神信仰の“陽石”は、
サルタヒコの高い鼻に
通じるものです。
通じるものです。
「当社は、往古より道祖神・
塞の神として名高く、
道開きの神ということから
商売繁昌・開運招福の神
として崇拝され、
また良縁・安産の神として
婦人の信仰が厚い」と…
江戸時代中期に明和年間に、
「村のよめ道祖神に 願をかけ」
と詠まれた社。
宗像三神の一座です。
市杵島姫命は、
第二代倭国王である
大己貴命が宇佐にから宗像に
大己貴命が宇佐にから宗像に
連れ出した姫。
猿田彦命は、市杵島姫と
采女神社(うねめじんじゃ)。
こんな感じで閉ざされている
ことが多いのですが、
お昼過ぎに蔀戸が上げられて
お守りや御神籤などが
天皇の寵愛が衰えたことを
嘆いた天御門の采女が
猿沢池に入水、
その慰めに建立されたとか。
由緒書によれば、
「自分が身を投げた
池を見るのは忍びないと、
一夜の内に
社殿の向きを変えた」と…
史料で確認できるのは、
15世紀からのことで、
江戸時代初期に一時、
社殿を東向きに建替えとも…
江戸中期に著された
『奈良坊目拙解』には、
もとは興福寺別院の北東隅、
在家に渡ったことで、
東から出入りするようになり
鳥居が建ったとの記録。
天鈿女命を祖とする猿女君は
采女=巫女と繋がります。
猿沢池には古くからの
猿沢池には古くからの
水神信仰があり、
池の水は竜宮に通じている。
機織姫との伝承が、
帝を待つ采女に重ねられた
「猿猴捉月(えんこうそくげつ)」
という故事からきています。
猿猴捉月とは、
「猿が水面に
映った月を取ろうと
木の上から手を伸ばし、
落ちて水に
溺れ死んでしまった」
という話のこと。
ここ猿沢池から一路南下し、
慈恩寺まで至る。
初瀬街道を経て
伊勢へと参ったそうです。
「奈良上街道」がそれで、
上方の人たちの
伊勢参りルート。
澄まず、濁らず、出ず、
入らず、蛙はわかず、
藻は生えず、
魚が七分に水三分。
ならまちの人々より
ならまちの人々より
猿沢池の生き物は、
手を触れられずに
丁寧に守られてきたとか…
椿大神宮には
あんなに居たのに…
なぜ「蛙はわかず」なのか?
時空の中で、サルタヒコが
見え隠れするそんな場所。