百舌鳥古墳群をあるく② ニサンザイ古墳


ニサンザイ」??
その語源は陵(みささぎ)とも。
履中天皇陵古墳も地元では
ミサンザイ古墳と長らく、
呼ばれてきました。

スズメ目ミソサザイ科
ミソサザイ属に「ミソサザイ

という鳥がいるそうです。
全長10.5cm。
全身こげ茶色で細かい模様があり、
日本全国に分布…
渓流の歌姫と呼ばれているとか。

漢字では 鷦鷯
しょうりょうが当てられ、
三十三才」とも書かれます。
ニサンザイも発音が変化したとか。

仁徳天皇は大鷦鷯尊、
武烈天皇は小泊瀬稚鷦鷯尊、
鷦鷯がその名に含まれています。
陵みささぎ」という言葉も
「ささき」に尊称の
「み」がついたものとも。

西洋でもミソサザイを
「王さま」とと呼ぶそうです。
ギリシャの哲学者のコトバ、
「弱々しいけれども
チャッカリ屋で器用で、
暮らしっぷりが
楽々としているところから」
そんな理由もあって、
もうひとつの王の象徴
鷲のライバルに見たてます。


2012年の
宮内庁と堺市の調査で、
築造時期は5世紀後半、
墳丘全長も元は300m超えが、
分かったそうで、
全国7位の前方後円墳です。
公園の説明は
8位のままですが…



三国ヶ丘町にある
反正天皇陵古墳
ほぼ4倍の大きさ…
というもの、
「ニサンザイ古墳」は、
反正天皇の空墓として、
陵墓参考地として宮内庁が、
指定管理しているのです。



2012年の調査の理由は、
濠の水によって削られていた
墳丘裾の護岸工事のため。
宮内庁が墳丘を、
堺市が濠の底や水際の調査。

埴輪の列が発見され、
円筒埴輪、須恵器や土師器 、
ミニチュア土器などの
出土によってその形から、
その築造は5世紀中半の
仁徳天皇陵古墳より新しい、
5世紀後半とされました。

ではナゼ
大王墓と指定されないのか。
被葬者が天皇とされているのは、
南西向きが一つの理由とも。
仁徳陵「中陵」
反正陵「北陵」履中陵「南陵」
とされてきた歴史があります。

百舌鳥古墳群では、
西向きがずっと多い
土師ニサンザイ古墳のほか、
長塚古墳・大塚山古墳・
いたすけ古墳・御廟山古墳など。



陵墓参考地扱いなので、
拝所も設けられていません。
そのことがかえって、
市民から愛されるという
歴史を刻んできました。
御陵山公園には、
馬形埴輪や古墳型の遊具
置かれいます。





東側の後円部にある
墳丘に通じる堤
幅約12m、長さ45m近くの
古墳時代最大の木橋
架けられていたことも
明らかになったそうです。

「前方後円墳」とは名の通り、
四角い方が「前」…、
でも「ニサンザイ古墳」は、
橋のあった後円部が「前」だったという説

造られた理由は学者によって、
さまざまな説があるようですが、
「被葬者を運ぶだけでなく、
 全国から多数の豪族が集まり、
 葬列をなしたのではないか。
 大王の葬列の様子が
 うかがうことができる
 初めての古墳。」※2

国立歴史民俗博物館の
広瀬和雄 名誉教授の話が、
よく分かると感じます。


その橋の袂には
一般墓地広がっています。
こちらに祀り場あったことを、
伝えているのかも知れません。
謎だからこそ…
「妄想」に浸れる。

それが古墳めぐりの
醍醐味でもありますなぁ〜。


「ニサンザイ古墳」
(土師ニサンザイ古墳)
・前方後円墳
・墳丘長約300m、後円部径約170m、
 高さ約24.6m、前方部幅約224m、高さ約25.9m
・5世紀後半
・堺市北区百舌鳥西之町3丁
【世界文化遺産登録候補】

※1「ミソサザイ」については、
サントリーの愛鳥活動のHPを参考にしました。

※2 産経新聞2016.1.29より
■堺市のニサンザイ古墳になぜ巨大木橋?
 考古学者でも分かれる見方

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