だんだん松山⑰ 松山俳諧の庵「庚申庵」
松山と俳句には深い繋がりがあって、
その中で近世伊予第一の俳人と言われているのが 栗田樗堂(くりたちょどう)。
彼が残りの人生を風流三昧に
暮らそうとして建てた庵を訪れて来ました。
樗堂には三つの顔があって、
一つは家業の酒造業、
もう一つは町役の大年寄という公務。
そして俳諧...
あの小林一茶が松山に2度おとずれたときに、
もてなして歌仙を影響し合ったのが樗堂。
「庚申庵(こうしんあん)」の名は、
干支が庚申であった寛政12年(1800)に
建てられたことに由来しています。
松山と俳句の歴史は初代久松松平藩主が、
身分を超えて御用商人と座を同じくして、
俳諧を楽しんだことに始まるそうです。
元禄時代になって、四代藩主の定直が
芭蕉門であった宝井其角(たからいきかく)に
入門したこともあいまって、
藩士たちにも芭蕉の俳諧が広がったと伝わります。
藤の名所としても名高い場所。
ここの藤はそう「野田藤」。
樹齢が200年くらいですから。。。
本家のより先輩です。
もう一つは町役の大年寄という公務。
そして俳諧...
あの小林一茶が松山に2度おとずれたときに、
もてなして歌仙を影響し合ったのが樗堂。
「庚申庵(こうしんあん)」の名は、
干支が庚申であった寛政12年(1800)に
建てられたことに由来しています。
松山と俳句の歴史は初代久松松平藩主が、
身分を超えて御用商人と座を同じくして、
俳諧を楽しんだことに始まるそうです。
元禄時代になって、四代藩主の定直が
芭蕉門であった宝井其角(たからいきかく)に
入門したこともあいまって、
藩士たちにも芭蕉の俳諧が広がったと伝わります。
藤の名所としても名高い場所。
ここの藤はそう「野田藤」。
樹齢が200年くらいですから。。。
本家のより先輩です。
伊予にある藤は実は、
江戸時代の安永年間(1772~81)に
江戸時代の安永年間(1772~81)に
宇和島藩5代藩主が参勤交代の途中に、
野田村に立ち寄ったときに持ち帰ったもので、
おそらく「庚申庵」の藤もそれに連なるもの。
宇和島市の「天赦園(てんしゃえん)」の
フジの妹分なのかも知れません。
静寂に包まれた落ち着ける空間、
バタバタと駆け抜けた松山観光でしたが、
ココロをととのえることのできた
一コマとなりました。
野田村に立ち寄ったときに持ち帰ったもので、
おそらく「庚申庵」の藤もそれに連なるもの。
宇和島市の「天赦園(てんしゃえん)」の
フジの妹分なのかも知れません。
静寂に包まれた落ち着ける空間、
バタバタと駆け抜けた松山観光でしたが、
ココロをととのえることのできた
一コマとなりました。
冬はこんな風情とか。。。