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大和郡山 豊臣秀長を辿る 豊臣郡山城の前後

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郡山城跡公園にある鳥居。 柳澤神社 のもので、 堀を挟んで" 竹林橋跡 "。 いまは橋はなく堀も左右が 堰き止められています。 鳥居の向かいは 県立郡山高校 冠山学舎 、 ちょうど文化祭が行なわていました。 高校があるところも何度か、 発掘の対象になったようです。 江戸期後半は二ノ丸にあたります。 城郭の中心部を南東上空から 「郡山城の標1」 より大和郡山市発行 天正年間に織田信長の命を受けた 筒井順慶 により築城が始められ、 1585(天正13)年に豊臣秀長が入城、 豊臣政権の畿内統治の拠点として 大規模に整備されました。 《 絹本著色 筒井順慶像 》   奈良市・伝香寺蔵 筒井氏は1385年(至徳2)に 文献上に現れ、 興福寺衆徒の棟梁を務める、 大和でも有力な武士でした。 1549年(天文18)に 家督を継いだ 順慶 の時、 河内の 三好長慶 と対立、 劣勢となり筒井城を追われましたが、 織田信長の後ろ盾を得て、 三好家家臣の 松永久秀 を降伏させ、 その後自害に追い込みました。 こちら大河ドラマ館にあった、 紛い物の平蜘蛛です。 大和統治を命じられて順慶は、 筒井城を含むすべての城を破城、 郡山城に移りました。 しかし、 順慶が築いた郡山城の 遺構は確認されていません 。 信長死後は豊臣秀吉に従い、 大和統治を続けましたが、 天正12年(1584) に病で 亡くなりました。 竹林門跡 本丸には柳澤神社があります。 五代将軍 徳川綱吉 の幕臣、 柳澤美濃守吉保 が御祭神。 1724年(享保9) 柳澤吉里 が郡山に入部、 以降 明治維新まで柳澤家が この地を統治がしました。 柳澤吉保は吉里の父にあたります。 大和郡山といえば金魚 。 1724年 郡山藩主となった 柳澤吉里が甲斐の国から 持ち込んだのが始まり とか。 幕末の頃になると、藩士の副業として、 明治維新後は、 職禄を失った藩士や農家の副業として 盛んに行われるようになりました。 もっともこれには最後の大和郡山藩主 柳澤保申 のおしみない援助が あったことが大きいと言われています。 柳澤神社の後方には 天守台があります。 公園内 柳沢文庫では企画展 「 後世に受け継がれる郡山城と城下町 -秀長城主時代からの変遷- 」 「和州郡山城郭絵図」 (正保年間)  国立公文書館・内閣文庫 蔵 ...

大和郡山 豊臣秀長を辿る 郡山城

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大河ドラマで沸く大和郡山へ 近鉄郡山駅は五七桐の幕。 駅前にあるこれ交番です。 城址公園内に立つ郡山城天守台 城の中心に位置する天守台は、 崩落の危険性があり 立入禁止となっていたようです。 天守の存在は、実在していたかも 諸説紛々となっていたのですが、 2014年の礎石発見で、 実在が確認されたのです。 礎石には1m前後の自然石、 礎石が取り外された部分には 礎石を支えた根石がみられ、 石があった位置がわかります。 礎石は列状に並べられていて、 上には土台となる木材が 横方向に置かれ、 その上に柱が立てられたとこと。 豊臣大坂城金箔瓦と 同じ笵(文様の型)を用いた軒丸瓦、 聚楽第に類例のある文様の 軒平瓦などが出土。 瓦の特徴から、 天守礎石は豊臣政権期と 考えらています。 天守は関ヶ原の戦い後に解体。 以後、郡山城では天守は 再建されなかったようです。 郡山城の石垣で特徴的なのが、 転用石材の多用です。 本来は異なる用途の石材を 石垣の構築部材として 転用したもので、 こちらは「伝・羅城門礎石」。 こちらも著名な「逆さ地蔵」。 全高110cm以上あり、 過去の調査で 大永3年 (1523)の銘文を確認。 精緻に仕上げられた仏身や 仏具が観察できます。 仏身が浮き彫りされた面を 下に向けて頭部が 奥に沈むような角度で配石。 他にも、石仏や寺院などの礎石、 五輪塔や宝篋印塔など、 板碑など石塔婆、 石灯籠、石臼などの 雑器類など多種の石材が 含まれています。 いずれも追手東隅櫓で開催の、 「秀長と郡山のあゆみ」展より。 実は… 興福寺の塔頭である多聞院に伝わる 『多聞院日記』には、 天正15年から17年に 普請に用いる石材を集めた 記録が集中しています。 薬師寺での採石を禁じる記録もあり、 城普請に際して周辺から石材を 集めていたことがわかっています。 豊臣期の遺構は、 本丸の天守礎石や土器埋納土坑をはじめ、 追手向(おおてむかい)櫓 常盤(ときわ)曲輪の礎石建物など、 城郭中心部の各所で確認されており、 秀長による築城の実態を今に伝えています。 今後も調査を継続することで、 地中に眠る秀長の足跡が さらに解明されることが期待されます。 現存最古の郡山城図は正保年間の 本多家が城主時代の《和州郡山城図》のみ、 豊臣政権時代の郡山城の様子が 窺える文献は残念ながらあり...

OSAKA黒ユニ

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OSAKAと綴られた タイガースの黒ユニ… 今年の黒さとネームの輝き は、 2025モデルとは一線を画す。 「TIGERS B-LUCK DYNAMITE SERIES」 略してTBDSと呼ぶ。 戦後すぐの「大阪タイガース」時代、 ダイナマイト打線 と呼ばれた。 1948年から49年の2年間着用の 黒のユニフォーム。 1番金田正泰、2番呉昌征の巧打俊足、 3番別当薫、4番藤村富美男の豪打、 5番土井垣武、6番本堂保次、 7番8番は後藤次男、安居玉、 あるいは長谷川善三とか。 「グレートセントラル」 での復活は、 長野で行われた横浜戦 2010年8月17日、 8月18日、19日は横浜スタジアムで。 3連勝でなんと 33点で3タテ している。 2011年の長野でのゲームは、 真弓監督の善光寺参拝のご加護? 「(シーズンの)最後まで着るか?」との ジョークも飛び出した。 8月24日からの広島との京セラ3連戦、 1勝2敗だったが8/25は 22-8で大勝 だった。 2011年交流戦では甲子園でお目見え、 ストッキングは数種類を使い分け、 2010はグレーと紺の縞を復刻したが、 2011は黄色と紺の縞の復刻となった。 ネットに残る 藤浪晋太郎 の黒ユニ姿、 ユニお披露目の一枚だが… 靴が蛍光色なのが笑える。 初代のユニは遠めからは 上下黒ずくめに見える 斬新な色調に見えたが… 「滑り込むとよく破れたから。  ばんそうこうを張って繕った」 と振り返って話が残る。 サンテレビ解説でも有名、 監督経験者の 後藤次男 さん談。 ユニフォームが登場した理由は、 戦後の物資不足だったとか。 伝統の縦縞のユニフォームに したかったのだが、 縞の生地が手に入らず、 やむなく紺色の生地で 仕立てるコト になった… ブラックでなく濃紺だっただ。 替え着はなく、 試合後は自ら洗濯して、 綻びを直して大事に使われた。 金本監督就任2年目、 2017年バージョンとしてリメイク。 ただこのときもOSAKAではなかった。 ダイナマイト打線の帽子マークは 大阪の頭文字の「O」だったが、 復活でもTHのままだった。 話は横道にそれますが、 「♪六甲おろし」 の "オゥオゥオーオー 阪神タイガース" 、 創立当初は大阪タイガースでした。 [大阪につながるからこそ  オウオウなのである] とい...