竹生島に渡る~神と仏の住まう島

「竹生島縁起」によると、
奈良時代の僧 行基の四天王像を
安置するため小堂を構えたのを
はじまりとしています。

鎌倉後期以降に描かれた
《菅浦与大浦下荘堺絵図》には、
北を上にして描かれ、
下方に菅浦の領家である
"竹生島"が描かれています。

都久夫郷麻神社 本殿にあたる弁天堂・
拝殿・舞台と両側の楽屋(経所)、
懸造りの観音堂・仁王門・三重塔、
それらをつなぐ太鼓橋など
詳細に描かれています。

《竹生島祭礼図》東京国立博物館
室町時代後期の弁才天の祭礼
"蓮華会"を描いた図、
永禄元年(1558)に
大火に見舞われたとされるので、
その直後の状況を伝えています。

竹生島港にあったこのイラスト、
島をシンプルに表したもの。
宝厳寺と都久夫須麻神社…
明治の神仏分離まで一体のもの、
大津県庁の命により、
1871年(明治4)に本尊の弁才天は、
妙覚院客殿に移され、
弁天堂は都久夫須麻神社本殿に。

宝厳寺弁才天堂の再建は
1942年(昭和17)になってから、
ながらく再建されなかったのは、
神仏分離のとき当時の大津県との
対立が関係していました。
1871年に県は縁起や『延喜式』の
"都久夫須麻神社"の記載を根拠に、
弁財天社を都久夫須麻神社へ改称、
宝厳寺の廃寺を命令した。

宝厳寺は弁才天社仏堂としての存続、
都久夫須麻神社の新設を嘆願したが
大津県の強硬姿勢は変らず…
やむなく宝厳寺は、
弁才天像を観音に遷座、
本堂を都久夫須麻神社本殿に…
一応の妥結が図られたが、
蓮華会の執行権もめぐって、
宝厳寺と神社は対立したそうです。

今でこそ"竹生島案内図"では、
同尺で描かれていますが、
本堂が復古調で再建され、
大弁才天像は本尊として遷座し、
本来の姿に復帰するまでは、
相当の時が費やされたのでした。

宝厳寺 三重塔の再建は2000年のこと、
絵図などにもその存在が
中世から確認できますが、
江戸時代初期には廃絶したそうです。

設計に当たっては、
中世以来 竹生島の宮大工を務めた
阿部家に残されていた
設計図を参考にし、
現代の宮大工が6年の歳月を
かけて建立されたものです。

こちら"雨宝堂"
神仏習合の両部神道における神、
天照皇大神の化現(けげん)とされます。
伊勢神宮の鬼門"金剛證寺"には、
雨宝童子像が祀られています。
頭上に五輪塔を掲げ、
右手に宝棒、左手に宝珠を持つ
童子として表されます。

金剛證寺の雨宝童子像、
天照大神が御降臨16歳のお姿を、
弘法大師 空海が彫ったと
伝えられています。

こちら竹生島現存最古の彫像、
《木造不動明王坐像》、
寺伝では智証大師作とされ、
かつては護摩堂に安置。
平安時代中期(11世紀末)と
伝わります。

竹生島は神仏習合の聖地でした。
仏教では弁財天を本尊とし、
神道では宗像三女神の
イチキシマヒメが祭神とされました。
江戸後期の木版刷りの伽藍図の上に、
1874年(明治7)に決定したとされる
都久夫須麻神社の
神域を朱線で書き加えた図。


仏教では弁財天を本尊とし、
神道では宗像三女神の
イチキシマヒメが祭神とされました。
江戸後期の木版刷りの伽藍図の上に、
1874年(明治7)に決定したとされる
都久夫須麻神社の
神域を朱線で書き加えた図。
江戸前期まであった三重塔の姿は、
すでに境内にはありません。

現在の竹生島参拝道には、
"宝厳寺弁天堂"ではなく"弁財天堂"。
神仏分離の結末はこのようであった…
竹生島僧侶は堂舎・仏像・仏器などの
破壊を怖れやむなく受諾、
寺地と社地の境界引分け、
弁才天は移座し従来のとおり
僧侶による奉仕を行うこと・
都久夫須麻神社は寶厳寺宝物中から
2品を選び神体として安置したという。

宝厳寺本堂で願い事を収め、
"願いダルマ"を奉納してきました。
で…都久夫須麻神社のご神体は?
琵琶湖そのものだとされています。
"願いダルマ"を奉納してきました。
で…都久夫須麻神社のご神体は?
琵琶湖そのものだとされています。