沖縄を感じた PLAZA HOUSE のこと

恒例の宜野座キャンプ…
タイガースとグルメは instaで!
沖縄の友人に連れていってもらった
"PLAZA HOUSE"という
ショッピング・センターのこと。

70周年を迎えたという…
" Trip down memory lane
1954 - 2024 " やってました。

スタートしたのは1954年7月4日、
アメリカの独立記念日、
米軍基地内でレストランと
テーラーを経営していた香港人、
チャールス・シー・ショーン氏が、
開業したのが " プラザハウス "。

米国人
ロージャー・シー・ウイリアムズが
東京芝田村町で経営していた
化粧品やプレタポルテを扱う
「ロージャース」が同年移転オープン。

1954年 という年は、
どんな年だったのか…
米ソのイデオロギー闘争、
いわゆる 冷戦真っ只中。

アメリカの消費は膨張、
ミッドセンチュリーモダンという
デザインムーブメントが
巻き起こっていました。

日本は第二次世界大戦の荒廃から
大規模な経済回復を遂げつつあった…
復興を願う国民の産業成長への
思いは、後の経済ブームの基礎へと。

ただ 沖縄は敗戦後は、
アメリカの管理下にあり地元経済は
米軍の雇用とビジネス機会を依存、
それが社会的・経済的課題でした。

1954年の沖縄の動き…
・首里城にあった琉球大学構内で
ラジオ放送が開始
・コザ市でAサインレストラン開業
Aサインとは Approvedの略、
米軍が定めた衛生基準クリアの証
・映画館 國映館がオープン
戦後最大の娯楽として、
人々が集い市場が生まれ街の繁栄へ

創業者は1947年に来沖の
チャールス・シー・ション。
基地内で特免業者してレストランと
サングウーテーラーを経営、
1950年にはバヤリース
カルフォルニアオレンジ沖縄と
共同設立した後、
1954年7月にプラザハウスを開業。

沖縄の強烈な陽射しを避けるフォルム、
低くて深い庇、広がる大きな駐車場、
リズミカルに回遊させるジグザグ店舗、
デンマーク人
ヨルゲン・シャーベック氏の設計。
日本航空をはじめとする
航空会社の支社が立ち並び、
プラザハウスは流行や豊かさの
シンボルとして成長しました。

米軍司令部のあったライカム地区に
「ロージャース」をオープン。
モダンな外観の建物は1953年、
大型台風により全壊、
12月にプラザハウスに移転開業。
ロジャー・シー・ウィリアムスの
1956年 帰米のあとは、
チャールス・シー・ションが
経営を引き続きました。

日本へ復帰した1972年、
プラザハウスは
観光戻税制度承認店に指定され、
高級ブランドのバッグ、時計、香水、
そして沖縄民芸品も取りそろえ、
沖縄観光ショッピングにおける
パイオニア的存在となりました。

ロージャースのファッションは、
経済的に豊かな沖縄マダムたちの
御用達になりました。
1975年 沖縄国際海洋博覧会、
その頃がプラザハウスの
黄金期だったとそうです。

展示会場にあった小冊子…
インタビュー記事にこうあります。
「美術館を造るのは簡単だけど、
博物館を造るのは難しい」
という話があって。
博物館がなぜ大変かというと、
あれも入れたいし、これも入れたい、
あれは入れるな、これは歴史と違うみ
たいなことで中身が決まらない…
東京芝田村町で経営していた
化粧品やプレタポルテを扱う
「ロージャース」が同年移転オープン。

1954年 という年は、
どんな年だったのか…
米ソのイデオロギー闘争、
いわゆる 冷戦真っ只中。

アメリカの消費は膨張、
ミッドセンチュリーモダンという
デザインムーブメントが
巻き起こっていました。

日本は第二次世界大戦の荒廃から
大規模な経済回復を遂げつつあった…
復興を願う国民の産業成長への
思いは、後の経済ブームの基礎へと。

ただ 沖縄は敗戦後は、
アメリカの管理下にあり地元経済は
米軍の雇用とビジネス機会を依存、
それが社会的・経済的課題でした。

1954年の沖縄の動き…
・首里城にあった琉球大学構内で
ラジオ放送が開始
・コザ市でAサインレストラン開業
Aサインとは Approvedの略、
米軍が定めた衛生基準クリアの証
・映画館 國映館がオープン
戦後最大の娯楽として、
人々が集い市場が生まれ街の繁栄へ

創業者は1947年に来沖の
チャールス・シー・ション。
基地内で特免業者してレストランと
サングウーテーラーを経営、
1950年にはバヤリース
カルフォルニアオレンジ沖縄と
共同設立した後、
1954年7月にプラザハウスを開業。

沖縄の強烈な陽射しを避けるフォルム、
低くて深い庇、広がる大きな駐車場、
リズミカルに回遊させるジグザグ店舗、
デンマーク人
ヨルゲン・シャーベック氏の設計。
日本航空をはじめとする
航空会社の支社が立ち並び、
プラザハウスは流行や豊かさの
シンボルとして成長しました。

米軍司令部のあったライカム地区に
「ロージャース」をオープン。
モダンな外観の建物は1953年、
大型台風により全壊、
12月にプラザハウスに移転開業。
ロジャー・シー・ウィリアムスの
1956年 帰米のあとは、
チャールス・シー・ションが
経営を引き続きました。

日本へ復帰した1972年、
プラザハウスは
観光戻税制度承認店に指定され、
高級ブランドのバッグ、時計、香水、
そして沖縄民芸品も取りそろえ、
沖縄観光ショッピングにおける
パイオニア的存在となりました。

ロージャースのファッションは、
経済的に豊かな沖縄マダムたちの
御用達になりました。
1975年 沖縄国際海洋博覧会、
その頃がプラザハウスの
黄金期だったとそうです。

展示会場にあった小冊子…
インタビュー記事にこうあります。
「美術館を造るのは簡単だけど、
博物館を造るのは難しい」
という話があって。
博物館がなぜ大変かというと、
あれも入れたいし、これも入れたい、
あれは入れるな、これは歴史と違うみ
たいなことで中身が決まらない…
PLAZA HOUSE は博物館だとも。

沖縄に関しては戦争を
どんな切り口にするか、
ひめゆりの塔は
どう編集したらいいかなと
考えた時に、読んだ若い人たちが
前に向かって進めるような希望を
込めたかったけど、
そのさじ加減が本当に難しかった。
との回顧も…

プラザハウスに転機が訪れたのは、
那覇空港が新しくなって、
首里城や美ら海水族館…
観光戻税制度が終了して、
店頭からブランド品が消え、
旅行社が運んでくれたお客さん、
どことも誰とも繋がりが無い、
何十年もの時間のなかで、
顧客リストの一つもなかった。

広い無料駐車場、
出入り自由のエントランス、
買い物に来たわけではないけれど、
すれ違う人にあいさつをしたり
おしゃべりをする場所として、

沖縄に関しては戦争を
どんな切り口にするか、
ひめゆりの塔は
どう編集したらいいかなと
考えた時に、読んだ若い人たちが
前に向かって進めるような希望を
込めたかったけど、
そのさじ加減が本当に難しかった。
との回顧も…

プラザハウスに転機が訪れたのは、
那覇空港が新しくなって、
首里城や美ら海水族館…
観光戻税制度が終了して、
店頭からブランド品が消え、
旅行社が運んでくれたお客さん、
どことも誰とも繋がりが無い、
何十年もの時間のなかで、
顧客リストの一つもなかった。

広い無料駐車場、
出入り自由のエントランス、
買い物に来たわけではないけれど、
すれ違う人にあいさつをしたり
おしゃべりをする場所として、
これからもここにあるでしょう。

「誰かを連れてプラザハウスに
行きたいと思うその人は、
仲間になっていく人たち」
プラザハウスは"公園"だと。

沖縄初の広東料理店「月苑飯店」の
開業もプラザハウス誕生と同じ
初代料理長は香港からを招き、
4代目までは香港人で、
5代目からウチナーンチュが
料理長を務めています。


「誰かを連れてプラザハウスに
行きたいと思うその人は、
仲間になっていく人たち」
プラザハウスは"公園"だと。

沖縄初の広東料理店「月苑飯店」の
開業もプラザハウス誕生と同じ
初代料理長は香港からを招き、
4代目までは香港人で、
5代目からウチナーンチュが
料理長を務めています。

沖縄にはいわゆる"町中華"の
文化はないのそうですが、
祝い事などは丸いテーブルを囲む、
親子2代、3代にわたっての常連さん。
ウチの家だと中之島の
リーガーロイヤルホテルのリモネとか…
一つの皿から料理をシェアする
温かさは円満の象徴でもあります。

沖縄でも家を建てたいという
意識がまず高くなっているとか、
いいものを選んで、
徐々に揃えるという志向へ。

買い物の仕方と時代の節目、
東日本大震災を境にテイストが
ガラリと変わったとも…
かつては東京より
文化はないのそうですが、
祝い事などは丸いテーブルを囲む、
親子2代、3代にわたっての常連さん。
ウチの家だと中之島の
リーガーロイヤルホテルのリモネとか…
一つの皿から料理をシェアする
温かさは円満の象徴でもあります。

沖縄でも家を建てたいという
意識がまず高くなっているとか、
いいものを選んで、
徐々に揃えるという志向へ。

買い物の仕方と時代の節目、
東日本大震災を境にテイストが
ガラリと変わったとも…
かつては東京より
3~5年遅れていると、
言われていた沖縄のトレンド、
SNSで隠れ家的なスポットが
見つけられるそんな時代、
トレンドに時差を
言われていた沖縄のトレンド、
SNSで隠れ家的なスポットが
見つけられるそんな時代、
トレンドに時差を
感じさせなくなりました。