京の冬の旅2023 醍醐寺 理性院
醍醐寺の塔頭寺院で別格本山で、
三宝院、金剛王院、
無量寿院、報恩院と共に
"醍醐五門跡"のひとつに
列せられてきた "理性院"。
五重塔や金堂がある伽藍入り口の、
仁王さんの立つ西大門前の←。
三宝院の築地塀に
"太元師明王 別格本山 理性院"、
三宝院流、金剛王院流、理性院流。
いわゆる醍醐三流のうち、
理性院流の本寺なのです。
通常非公開の寺院ですので
一般拝観はできませんが、
"京の冬の旅”に初登場…
普段は山門を入った千体地蔵まで
先代のご住職が集められたもので、
作られてたもので年代さまざま…
猿のお地蔵様の姿もありました。
毎年10月の第3日曜日に
"千体地蔵供養"では、
涎(よだれ)掛けが奉納され、
真新しくされるとか…
普段この門扉には、
「関係者以外の立ち入りを禁ず」の
貼り紙がされていています。
理性院が創建されたのは
1115(永久3)年のことで、
醍醐寺の僧 賢覚(けんがく)が開基。
本堂は外陣、内陣、内内陣の
3室に分かれていて、中央の厨子に
"大元帥明王"が祀られています。
"秘仏中の秘仏"で開張は80年ごと、
2007年の前回がチャンスだった…
次回は2087年なので孫世代でも、
なかなか見ることはできません。
大元帥明王法は鎮護国家の要法で、
秘法中の大秘法とされ、
真言宗独自で天台方にはないとか。
日本唯一の三蔵法師である
法相宗の霊仙三蔵が唐から、
法を持ち返ろうとして毒殺…
当時の"第一級の秘密兵器"は、
少々飛躍すぎかも知れませんが、
"現代の核兵器扱い"やったかも…
日本には請来されたのは、
小栗栖 法琳寺の"常暁"の僧。
常暁は奈良の秋篠にて修行、
若き日供養の閼伽水を汲む時、
忿怒形六面八臂の
鬼神のような姿の仏を
井戸の水底に見たとか…
承和五年(838)に入唐して習学、
承和六年(839)に帰国した後に、
太元帥法請来の旨を
朝廷に報告したそうです。
その後は法琳寺別当が
修してきました…が、
後白河法皇の時代に法琳寺での
大法は途絶えることに。
朝廷より"正月永く修すべき国典"と
定められてはいたのですが、
室町時代以降から連綿と
毎年ここ理性院で執り行われ
伝承されていました。
ただ明治維新により中断…
天皇陛下御即位の
1915(大正4)年と1928(昭和3)年、
修された記録が残っています。
一説にはこうした秘法は、
授かりながら修さないでおくと、
逆に障礙(しょうがい)になるとも…。
軍隊でいう"元帥"は大元帥明王法、
ここに因むとかあり、
秘められているものに
枚挙がないのです。
右手には平安後期の一木造、
不動明王が童子像の脇侍とともに。
「頭髪には並行する束目を表わし、
宝相華、菊花の付いた
紐二条を巻き、
七莎髻を頭頂に結ぶ。
両目は見開き、
上歯牙をあらわして下唇を噛む。」
像高88.3cmの等身坐像は、
どっしりとした量感に富む。
右手には平安後期の一木造、
不動明王が童子像の脇侍とともに。
「頭髪には並行する束目を表わし、
宝相華、菊花の付いた
紐二条を巻き、
七莎髻を頭頂に結ぶ。
両目は見開き、
上歯牙をあらわして下唇を噛む。」
像高88.3cmの等身坐像は、
どっしりとした量感に富む。
「像は、忿怒の相貌も
穏やかに整えられ、
肉付けは要所を軽く引き締めて
幼児を思わせるやわらかな
膨らみをもたせている。」
文化遺産データベースでは
このように解説されています。
寄木造が定着していた時期に、
丸彫りに近い構造は稀有とか…
左手には毘沙門天立像。
実は大元帥明王は
毘沙門天配下の八大夜叉で、
阿吒縛俱(アータヴァカ)夜叉大将。
天部の毘沙門さんより
位が上になったのですが、
元上司にあたるのが"毘沙門天"。
毘沙門天が祀られているのは、
御修法として必須なのですが、
「俺より出世したなあ」との
心持ちで護られているのやも。
本堂左手には客殿が立ちます。
醍醐寺座主の『義演准后日記』の
元和3年(1617) 10月5日条、
「理性院客殿立柱 広橋大納言馳走也」、
江戸初期の築と伝えられます。
「上段の間」と床の間と南壁には、
狩野探幽が18歳頃に描いたとされる
「水墨山水画」が遺されています。
幼児を思わせるやわらかな
膨らみをもたせている。」
文化遺産データベースでは
このように解説されています。
寄木造が定着していた時期に、
丸彫りに近い構造は稀有とか…
左手には毘沙門天立像。
実は大元帥明王は
毘沙門天配下の八大夜叉で、
阿吒縛俱(アータヴァカ)夜叉大将。
天部の毘沙門さんより
位が上になったのですが、
元上司にあたるのが"毘沙門天"。
毘沙門天が祀られているのは、
御修法として必須なのですが、
「俺より出世したなあ」との
心持ちで護られているのやも。
本堂左手には客殿が立ちます。
醍醐寺座主の『義演准后日記』の
元和3年(1617) 10月5日条、
「理性院客殿立柱 広橋大納言馳走也」、
江戸初期の築と伝えられます。
「上段の間」と床の間と南壁には、
狩野探幽が18歳頃に描いたとされる
「水墨山水画」が遺されています。
「理性院為見舞罷向了。
狩野采女座敷絵書之召出盃賜之」
さきほどの義演の日記、
狩野采女とは18歳の狩野探幽。
狩野采女座敷絵書之召出盃賜之」
さきほどの義演の日記、
狩野采女とは18歳の狩野探幽。
探幽は元和5年から6年にかけて、
徳川和子入内にあたり造営の
女院御所の障壁画制作で
江戸から上洛していたとされ、
一部伝存の「唐美人図」は、
探幽の筆と見なされています。
徳川和子入内にあたり造営の
女院御所の障壁画制作で
江戸から上洛していたとされ、
一部伝存の「唐美人図」は、
探幽の筆と見なされています。
床のある床壁貼付は縦232センチ、
横382センチの大画面で、
左方上部に遠山を配し、
下方に松樹や楼閣を岩上に描く、
余白を大きく取って右方に
2隻の小舟が樹叢に添えられる。
文人の嗜みとされた四芸「琴棋書画」
囲碁を楽しむ高士たち、
"棋"は囲碁のこと。
楼閣の前には琴を弾く高士、
高士3人と侍童1人が囲む。
横382センチの大画面で、
左方上部に遠山を配し、
下方に松樹や楼閣を岩上に描く、
余白を大きく取って右方に
2隻の小舟が樹叢に添えられる。
文人の嗜みとされた四芸「琴棋書画」
囲碁を楽しむ高士たち、
"棋"は囲碁のこと。
楼閣の前には琴を弾く高士、
高士3人と侍童1人が囲む。
現在失われた襖部分には、
書や画をたしなむ高士が
山水景観のなかで配され、
上段之間全体で"琴棋書画図"を
表していたと想像されています。
床の間左方に隣接する壁貼付
正方形に近い画面で、
近景、中景、遠景が
岩山を配して描かれています。
書や画をたしなむ高士が
山水景観のなかで配され、
上段之間全体で"琴棋書画図"を
表していたと想像されています。
床の間左方に隣接する壁貼付
正方形に近い画面で、
近景、中景、遠景が
岩山を配して描かれています。
《義演像》醍醐寺
62歳の醍醐寺座主義演が
弱冠18歳の探幽を召出し、
わざわざ盃をとらせ日記に…
62歳の醍醐寺座主義演が
弱冠18歳の探幽を召出し、
わざわざ盃をとらせ日記に…
その話に戻ります。
直接的な血縁関係はない二人、
探幽の父 狩野孝信の室は、
佐々成政の娘 養秀院、
義演の兄弟の鷹司信房、
継室は成政の娘 岳星院。
直接的な血縁関係はない二人、
探幽の父 狩野孝信の室は、
佐々成政の娘 養秀院、
義演の兄弟の鷹司信房、
継室は成政の娘 岳星院。
父の狩野孝信から見ると義演は、
内室の姉妹の義理の兄にあたる。
鷹司信房と輝子の娘 孝子は、
内室の姉妹の義理の兄にあたる。
鷹司信房と輝子の娘 孝子は、
その後徳川3代将軍 家光の正室に。
探幽本人も気付かぬところで、
様々な人たちの手助けがあった…
探幽の評価を確定させた
二条城障壁画まで理性院から6年、
壁貼付で取り外せないことから、
狩野探幽ゆかりの展覧会にも
一度も出品されたことがない。
京の冬の旅での公開は3月18日まで、
探幽本人も気付かぬところで、
様々な人たちの手助けがあった…
探幽の評価を確定させた
二条城障壁画まで理性院から6年、
壁貼付で取り外せないことから、
狩野探幽ゆかりの展覧会にも
一度も出品されたことがない。
京の冬の旅での公開は3月18日まで、