京のナツたび〜渉成園ー蘆庵
京の夏の旅 文化財特別公開
2箇所目は、
お東さんの飛地境内地
「渉成園」にある
2階茶室の蘆庵へ。
「渉成園」(しょうせいえん)は、
「枳殻邸」(きこくてい)との通称は、
周囲に「枳殻」(からたち)を
生垣として植えたことに因みます。
1641(寛永18)年に三代将軍の
徳川家光から約一万坪が寄進され、
石川丈山の趣向での作庭です。
建物の多くは1858年と1864年の
二度にわたる焼失しましたが、
明治初め以降 改めて再建されたもの。
作庭と建物との調和を維持し、
「市中の隠」との趣で、
明治維新後も多くの著名人が
ここを訪れています。
岩倉具視、三条実美などの華族、
明治天皇は1880年(明治24)に、
ロシア皇太子で後のニコライ二世、
吉田茂、ヘレン・ケラーなどなど。
手前が「臨池亭」(りんちてい)、
奥が「滴翠軒」(てきすいけん)。
吹放しの廊下で繋がって、
かつては合わせて「臨池亭」と
呼んでいたとか…
「園林堂」(おんりんどう)。
「園林」は仏典では「浄土」を
表す表現だそうで、室内には
棟方志功の襖絵があるそうです。
睡蓮はすでに実をつけていました。
その隣りにあるのが
特別公開の茶室「蘆庵」(ろあん)。
2階建ての茶室。
二方を望める肘掛窓。
開場は煎茶席。
主室北側が板敷き
階段をのぼり2階へ。
2階天井は蘆=葦葺き、
かつては唐代の禅僧である
雲門文偃(うんもんぶんえん)の
言行録から「露」の一字をとり、
扁額も露庵だったそうですが、
いまでは違う字をあてています。
立って眺めるよりも…
座って肘掛窓からの視点が、
この場所にはあっています。
かつては五山の送り火を
愛でることができたとか…
建物だけでなく、
園内の樹木もずいぶんと
大きくなったのだと…
「池泉回遊式庭園」
である広い園地は、
「印月池」(いんげつち)、
東山から上る月影を写します。
左大臣・源融が営んだ
「六条河原院」の旧蹟とも…
奥州塩釜の風景を模し、
尼崎から海水を運ばせて、
池を作った伝わり、
「塩釜」や「塩釜の手水鉢」が
景物として残されています。
園地に向かうのが
「閬風亭」(ろうふうてい)。
閬風とは、
中国・崑崙山脈にある山の名前で、
仙人が棲むとされていて、
賓客を迎える大書院として、
明治天皇のご休息にも使われた場所。
ふと見上げると京都タワー。
京都タワーを借景とする
スポットとしても有名。
ちょっと大阪・天王寺公園内にある
「慶沢園とあべのハルカス」に
通じるものがあるかなぁ〜と。
印月池に浮かぶ島…
北東から南西方向に
ほぼ高さが同じ。
秀吉の「御土居」の
跡とも伝わります。
秀吉を祀る方広寺と西本願寺は、
かつては正面通とよばれる直結、
西本願寺は秀吉恩顧の寺院でした。
徳川の御代になって、
このラインを断ち切るという意図、
現在の地に東本願寺、
さらに飛び地を設けたと…
本願寺の東西分断は、
教団内部の問題でもありますが、
そこに豊臣の影を消そうとした、
徳川の思いも合わさったのです。
こちらは「傍花閣」(ぼうかかく)。
左右の側面に山廊と呼ばれる
階段の入り口があって、
階上には四畳半の部屋があるとか…
部屋の天井には磁石石に
十二支を配した図様が、
描かれているそうです。
「回棹廊」(かいとうろう)。
安政の大火における焼失以前は、
朱塗り欄干をもつ反橋だったとも。
夜半の来客の折、
金燈籠が吊るされました。
印月池に浮かぶ北大島に建てられた
茶室「縮遠亭」(しゅくえんてい)。
板間をはさんで右手の上段は、
床を高く支えた舞台造り。
かつては東山三十六峰の一つ、
阿弥陀ヶ峰の遠景を
縮図にしたことから、
この名となりました。
春夏秋冬にさまざまな
印象をみせるとか・・・
改めて訪れたい庭園でした。
「第42回 京の夏の旅」
〜9月30日(土)まで