ヒロシマ爆心地から2300m〜広島東照宮①
広島駅の新幹線口から北にある
二葉山の山麓に立つ「広島東照宮」。
広島藩主 浅野 光晟(みつあきら)によって、
広島城の鬼門に造営されたのは、
徳川家康公薨去後33年忌にあたる
慶安元年(1648)のことだったそうです。
光晟の生母が家康の第三女、
振姫(ふりひめ)であったことそうで、
祖父にあたる徳川家康を敬慕されていて、
立派な社殿は、
「二葉山山麓に位置し、
観望の美麗なるは、
毛利氏広島に築城以来、第一のもの」
と賞賛されていたと伝わります。
1945.8.6はここも例外なく
熱風によって社域は焼失に期しました。
陽明門に相当する唐門は、
原子爆弾の爆風で全体が北東に
少し傾いていたのですが、
2008年から4年と歳月をかけて、
創建当初の華麗な姿を取り戻しました。
両脇に取り付けられているのは、
鉄拐(てっかい)・蝦蟇(がま)
両仙人の装飾彫刻は、
地元広島の蒔絵作家で日本画家の
荒木秀峰さんらが復活されたものです。
こちらが「鉄拐仙人」です。
李鉄拐仙人のエピソードは、
こんな感じです。
ある時、華山で老君に会うとして、
体を置いて魂だけ行きますが、
その際弟子に体の番をさせたそうですが、
七日経っても帰らなければ体を焼いてもよいが、
それまでは決して動かさないようにと…
ところが六日目に弟子の母親が死んでしまい、
家に帰るため鉄拐の体を焼いて帰ってしまいます。
七日目に帰ってきた鉄拐、
戻る体が焼かれて困ってしまいます。
そんなところに道端で乞食が飢えて倒れていました。
その乞食の体に入ってやっと再生できました。
この彫刻でも、
魂の抜け出る様子が彫られています。
こんな感じです。
ある時、華山で老君に会うとして、
体を置いて魂だけ行きますが、
その際弟子に体の番をさせたそうですが、
七日経っても帰らなければ体を焼いてもよいが、
それまでは決して動かさないようにと…
ところが六日目に弟子の母親が死んでしまい、
家に帰るため鉄拐の体を焼いて帰ってしまいます。
七日目に帰ってきた鉄拐、
戻る体が焼かれて困ってしまいます。
そんなところに道端で乞食が飢えて倒れていました。
その乞食の体に入ってやっと再生できました。
この彫刻でも、
魂の抜け出る様子が彫られています。
京都市の彫刻師が彫ったケヤキ板に、
西本願寺の絵師である
舟岡恵凡さんとともに彩色した荒木さん。
日光東照宮で学んだ江戸時代初期の技法で、
ルビーなどの鉱石を砕いた
天然の岩絵の具による重厚感ある色合いで、
被爆後67年ぶりに復活されたのです。
北面の彫刻の極彩色もみごとに。
唐門とは対照的に和様の構えの
翼廊(よくろう)は左右十間づつの切妻造。
戦後は桟瓦葺となっていたのも
本瓦葺となって勇姿を取り戻しています。
せっかくだから「蝦蟇鉄拐図」。
雰囲気がかなり異なりますが…
こちらは京都 知恩寺につたわる
元時代に顔輝(がんき)が描いたもの。
鉄の杖を胸元にたてかけた李鉄拐は、
ちょうど魂を吹き出した所。
もとの体は脱けがらに、
死色を帯び硬直し始めている様。
蝦蟇仙人は不老長寿を示す桃を持って、
肩に白いガマガエルをのせています。
生と死が対峙する仙人の姿として、
対として用いられる画題なのです。
このブログは中国新聞の記事
「被爆経た仙人彫刻 復元 広島東照宮で修理中」
西本願寺の絵師である
舟岡恵凡さんとともに彩色した荒木さん。
日光東照宮で学んだ江戸時代初期の技法で、
ルビーなどの鉱石を砕いた
天然の岩絵の具による重厚感ある色合いで、
被爆後67年ぶりに復活されたのです。
北面の彫刻の極彩色もみごとに。
唐門とは対照的に和様の構えの
翼廊(よくろう)は左右十間づつの切妻造。
戦後は桟瓦葺となっていたのも
本瓦葺となって勇姿を取り戻しています。
せっかくだから「蝦蟇鉄拐図」。
雰囲気がかなり異なりますが…
こちらは京都 知恩寺につたわる
元時代に顔輝(がんき)が描いたもの。
鉄の杖を胸元にたてかけた李鉄拐は、
ちょうど魂を吹き出した所。
もとの体は脱けがらに、
死色を帯び硬直し始めている様。
蝦蟇仙人は不老長寿を示す桃を持って、
肩に白いガマガエルをのせています。
生と死が対峙する仙人の姿として、
対として用いられる画題なのです。
このブログは中国新聞の記事
「被爆経た仙人彫刻 復元 広島東照宮で修理中」
を参考にしました。