大大阪をあるく26 旧大阪砲兵工廠化学分析所
虎次郎のゴールデンウィーク、
今年は遠出の予定なく・・・
久しぶりに大大阪をブラブラと。
天満橋の駅からほどなく歩くと、
「京橋」と名付けられた橋を渡ると、
見える赤レンガの建物が
大阪砲兵工廠の「化学分析所」っての。
その奥に大阪城が見える。
日本陸軍直営の兵器工場として、
大阪砲兵工廠が設立されたのは、
1870年(明治3)のこと。
大砲・爆弾・戦車などを生産し続け、
その規模は東洋一を誇っていました。
虎次郎が小学生の頃は、
この付近は混沌とした臭いが
プンプンしてた一帯でした。
対称性=シンメトリー が強調された
ネオ・ルネサンス風のデザインではあるが、
戦後1964年から1998年までは、
自衛隊の大阪地方連絡部として使われていたが、
その後は建物は放置されたまま。
大阪城の臨時駐車場として
使われていたことがあった名残で、
トタン板の屋根やバリケードなどの
資材が放置されたままになっていました。
このまま放置され突如解体されるのではと、
ちょっと心配します。
砲兵工廠を伝える建物だけに
「戦争遺跡」として積極的に
保存されてもいいのだと思います。
全ての窓がクロいベニヤで覆われており、
なんとも悲哀を感じさせています。
大阪城の近くを走る大阪環状線は、
ほぼ全線が高架になっているのですが、
大阪城公園駅をはさんだ京橋と森ノ宮の区間は
電車が地上を走っています。
大阪砲兵工廠という巨大な兵器工場を、
乗客の目から隠していた名残と言われているが、
一説には陸軍用地だったため横断する道もなく、
踏切となる可能性もなかったからとも言われます。
大阪ビジネスパークとなり戦争の記憶が、
薄らぐなかこの片隅だけがそれを伝えていました。
大阪城ホール近くに残る「砲兵工廠跡」の碑
今年は遠出の予定なく・・・
久しぶりに大大阪をブラブラと。
天満橋の駅からほどなく歩くと、
「京橋」と名付けられた橋を渡ると、
見える赤レンガの建物が
大阪砲兵工廠の「化学分析所」っての。
その奥に大阪城が見える。
日本陸軍直営の兵器工場として、
大阪砲兵工廠が設立されたのは、
1870年(明治3)のこと。
大砲・爆弾・戦車などを生産し続け、
その規模は東洋一を誇っていました。
虎次郎が小学生の頃は、
この付近は混沌とした臭いが
プンプンしてた一帯でした。
対称性=シンメトリー が強調された
ネオ・ルネサンス風のデザインではあるが、
戦後1964年から1998年までは、
自衛隊の大阪地方連絡部として使われていたが、
その後は建物は放置されたまま。
大阪城の臨時駐車場として
使われていたことがあった名残で、
トタン板の屋根やバリケードなどの
資材が放置されたままになっていました。
このまま放置され突如解体されるのではと、
ちょっと心配します。
砲兵工廠を伝える建物だけに
「戦争遺跡」として積極的に
保存されてもいいのだと思います。
全ての窓がクロいベニヤで覆われており、
なんとも悲哀を感じさせています。
大阪城の近くを走る大阪環状線は、
ほぼ全線が高架になっているのですが、
大阪城公園駅をはさんだ京橋と森ノ宮の区間は
電車が地上を走っています。
大阪砲兵工廠という巨大な兵器工場を、
乗客の目から隠していた名残と言われているが、
一説には陸軍用地だったため横断する道もなく、
踏切となる可能性もなかったからとも言われます。
大阪ビジネスパークとなり戦争の記憶が、
薄らぐなかこの片隅だけがそれを伝えていました。
大阪城ホール近くに残る「砲兵工廠跡」の碑
「旧大阪砲兵工廠化学分析所」
建築年:1919年(大正8)
煉瓦造2階建
設計:砲兵工廠建築課(置塩章)
煉瓦造2階建
設計:砲兵工廠建築課(置塩章)