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日本人の嗜好をさぐる⑮ 銭湯と温泉

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《浮世風呂一ト口文句》  金子今次郎蒐集 30年ほど前… 虎次郎の家の隣には、 「伏見温泉」 という名の 銭湯がありました。 ただ… 銭湯と言わずに お風呂屋さん 、 そう呼んでいました。 『浮世風呂』 より 銭湯が現れたのは江戸の 文化年間 (1804~1818)、 江戸の町民文化が活況を 帯び発展した時代のころ。 『浮世風呂』 より 湯屋に入るとまず 番台で湯銭を払う。 当時は 番台でなく高座 と 呼んでいたそうです。 湯銭は十文(約250円)、 蕎麦 十六文よりもだいぶ安い。 『賢愚湊銭湯新話』 より 脱衣場はこんな感じ。 いまでも温泉で見られる 情景とあまり変わりません。 『職人尽絵詞』より  鍬形蕙斎 洗い場は、板の間で傾斜を つけた流し板になっています。 真ん中の男は軽石で足の 踵をこすっているよう… 爪を切っている姿もあり、 爪切り用のハサミにはひも、 櫛にもひもが付いていて、 誰でも自由に使えるが、 持ち帰れないよう工夫。 『賢愚湊銭湯新話』より 腰を屈めて 子どもを抱く姿。 破風形の石榴口をくぐった 奥に浴槽はありました。 湯が冷めるのを防いだもの。 破風形は上方に多く、 江戸は鳥居形 だったそうです。 風呂建築に破風がみられるのは、 このことに由来しているとか。 で…なぜ  石榴口  と呼ぶのか? 「屈み入る」と「鏡鋳る」 を かけた洒落だそうでして、 「鏡鋳る」というのは 鏡を磨くのはその昔 ザクロの実 。 《職人尽絵貼りまぜ屏風》   鏡研師 以前にも紹介したコレ! 『嬉遊笑覧』 にも 「常にたくを風呂といいて、  あけの戸なきを石榴風呂とは、  かがみいるとの心なり。  鏡を磨くに石榴の酢を用ゆ」と。 《江戸名所図屏風》 より 湯屋へ入る姿が蛇に 呑み込まれるようなので 「蛇喰口 (じゃくろうぐち)」 … それが なまったという説も。 石榴口を潜ると… かなり暗かったそうな。 わざと暗くしていたとか、 その訳はあまり湯がキレイに 保たれてはいなかったそうな。 『江戸名所 百人美女』より 《今川はし》 歌川国貞 国貞が描いた美女シリーズの ひとつには盥で髪を洗う姿。 銭湯で髪を洗う習慣は、 ありませんでした。 1970年代でもお風呂屋さんでは、 「洗髪代」が必要 でした。 《睦月わか湯乃図》  三代 歌...

日本人の嗜好をさぐる⑭ 富士登山

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《冨嶽三十六景 山下白雨》  葛飾北斎   今年は夏の富士山頂は、 人影が見られないのだとか。 信仰として山を登る 「登拝」 ではなくて… レジャーとしての登山は、 戦後からかも知れません。 《凱風快晴》が「赤富士」 と 称されたのに対し、 《山下白雨》「黒富士」 。 漆黒に包まれた裾野から 山頂へのシャープなフォルムは、 尖りすぎの印象が否めません。 夕立を意味する「白雨」、 裾野に轟く稲光り… さっきまで晴れていたのに、 迫る黒く染まった雨雲、 これから来るであろう雨は、 俄雨でやり過ごしたい。 《冨士山北口全図 鎮火大祭》 西欧の山には ”悪魔の棲家” 、 そんな印象とは逆に、 日本人は山や自然と共生、 "畏敬" という想いがありました。 神迎えに登る時が山開き、 富士山となると… 浅間神社の祭がそれです。 《冨嶽三十六景 諸人登山》  葛飾北斎 北斎の冨嶽三十六景にも 富士山頂を目指す富士講の 人々が描かれています。 富嶽シリーズ46枚中、 唯一この画には富士の山容が 描かれていないのです。 特定の場所が明示されず、 「凱風快晴」「山下白雨」 と並びシリーズの締めを 担っています。 江戸期に生きていた人々は、 非常に特別な存在として 富士山と付き合っていました。 というのも富士山の噴火は、 日記などの記録を辿ると、 平安時代以降に10回あり、 大規模な噴火は1707年の 宝永大噴火なのです。 『富嶽百景』《宝永山出現》  葛飾北斎 北斎はこの宝永大噴火を 描いていたのです。 『富嶽百景』 という冊子体に、 「宝永山出現」とあるのがコレ。 降り注ぐ岩、崩れ落ちた家屋、 下敷きになった馬、 人までもが宙を舞い、 なすすべもなく逃げ人… 規模の大小はあるけれども、 ほぼコンスタントに 300年サイクルという 周期で噴火が起きています。 《大山石尊大権現(仮題)》  歌川芳虎 そんな畏敬の対象の富士、 なぜ目指したのでしょうか。 三枚綴りの大山講錦絵には、 江戸の町火消し装束に提灯、 男気の示せる山登り という 一面を持っていたのでしょう。 ちなみに江戸期には文字や 小さな花などの入れ墨で、 絵のような全身の入れ墨は、 創作であるようです。 《富士山諸人参詣之図》  二代 歌川国輝  まだ夜も明けぬ暗い内に 参集した富士講中。 富士山頂にお参...

日本人の嗜好をさぐる⑬ 織姫と彦星

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『月百姿』より「銀河月」  月岡芳年 画 織姫と彦星 って、 恋人たちの話と 信じていませんか? 実は二人は結婚していて、 ラブラブ新婚生活… あまりにイチャイチャ しているのを見兼ねて… 織姫の父である天帝が、 天の川を挟んで 2人を離れ離れした とか… 《風流役者地顔五節句 七月之図》  歌川豊国( 初代)1809年 あまりに織姫と彦星は 涙に暮れるので、 七夕の夜だけ逢瀬を 楽しむことを許した 恋人同士ではなく 親に強制別居 させらた 夫婦の話だったそうです。 当然日本に渡来した話は、 そんな風には広がっていません。 台の上にあるのは " 組上灯籠 "と 呼ばれるもので、 切抜き絵を組立てて、 内側から照らすものです。 煙管からの煙のなかに、 牛をひく牽牛と織女。 《文月西陣の星祭り》  五渡亭国貞 (三世 豊国) 江戸期の五節供で 幕府の公式行事であり、 民間でも盛んに… 《名所江戸百景 市中繁栄七夕祭》  安藤広重 江戸の空には、 七夕の詩歌を書いた短冊、 色紙で切った網や 吹き流しなど… 《子供遊五節供 七月》  歌川国芳 七夕飾りにはそれぞれ 意味があって、 吹き流し は織姫の織り糸、 網飾り は大漁を祈願、 瓢箪 は無病息災、 スイカ は豊作祈願… 《十二ヶ月之内 七月七夕》  渓斎英泉 いつもなら7月9日・10日は、 四万六千日・ほおずき市 が 浅草寺 で行われます。 観世音菩薩の功徳日 なかでも、 最大の功徳が得られる日。 諸説ありますが、米の一升は 米粒46,000粒にあたり、 一升と一生をかけた とか… ホオズキは「鬼灯」 と書き、 祖先の霊を導く提灯にの意。 《源氏五節句之内 七月七夕祭 》  豊原国周 七夕がお盆と密接な関係に あったことを示すのが、 「ホオズキ」なのです。 《風流子宝十二月 文月》  菊川英山 机上の緑色は 里芋の葉 、 1833年に 山東京山 が著した、 『 五節供稚童講訳 』には、 「芋の葉の露にて短冊書く事」 。 芋は子の沢山あるものゆえに、 その葉の露を墨にすること… 《子供遊五節供 七月》  歌川国芳 七月は 文月 と呼びますが、 笹の葉に願い事を書いた 短冊を飾るという風習。 七夕の行事は中国をはじめ、 台湾、ベトナムなどアジア諸国、 広く行われていますが、 短冊を飾るのは日本だけ とか...

猿田彦のミチを開くvol.22 少彦名命と猿田彦命

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伊勢神宮には猿田彦命は 祀られておらず… 出雲大社には少彦名命社は、 存在しないのだそうです。 大阪北浜・道修町にある 少彦名神社 は、 神農さん として今なお 信仰を集めています。 鳥居ではなく 注連柱 「 定給療病方威蒙 (やまいをおさむるのりを  さだめたまひ)   其思頼 (みなそのみたまのふゆを  かがふれり)」 と刻まれています。 江戸末期から明治の政治家、 東久世 通禧 の揮毫によるもの。 江戸初期の明暦4年頃から 薬種商が集まっており、 1722年(享保7)には、 道修町薬種中買仲間 として 幕府より公認されました。 生命に関する薬を 神の御加護のもとに 間違いなく取り扱えるよう、 薬祖である神農氏 とともに、 京都の 五条天神 から 少彦名命をお招きして、 仲間会所にお祀りしたもの。 境内に祀られれるのが、 五社明神は宮司家に 祀られていたもの。 伝わるところ… 伊勢の 猿田彦神社 の 猿田彦大神と天鈿女命、 久留米の水天宮、 香川の金刀比羅宮、 京都の北野天満宮です。 江戸時代から宮司家で お祀りされていたのを遷座 されたものなのだそうです。 『神代の物語』 ※1 少彦名命より 少彦名命の話に戻ります… 少彦名命はあの国造りを オオクニヌシと力を合わせて 成し遂げた神さまで、 『出雲国風土記』 には、 「天の下所造らしし大神、  大穴持命と湏久奈比古命と、  天の下を巡る時に、  稲種此処に堕つ。  故、種と云ふ」とあり、 極めて大切な存在なのです。 出雲大社のご祭神を改めて… 主祭神は オオクニヌシ 、 皇祖神と国津神に限られ、 例外として御客座五神や 祓戸大神と門神、 そして天津神が加わるのみ… なぜか少彦名命が 見あたらないのです。 伊勢神宮での猿田彦命と 同じような扱いを 受けておられるように 思われてなりません。 少彦名神社の少彦名命は、 京都の 五条天神 をルーツと されているという話がありました。 もともと「天神」とは、 天津神の造化三神 の子のことで、 大神の手の間からこぼれた 神であるがゆえに、 少彦名命は「天神」 あるいは「手間宮」として 祀られてきたのです。 天満宮の菅原道真公 が 天満大自在天神 として祀られる、 遥か昔のこと。 『出雲神話』 ※1 少彦名命より 大国主命といえば 「因幡の白兎」 「きれいな水...

猿田彦のミチを開くvol.21 日向大神宮の八百神たち

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頑張って小登山をこなすと… そこには「 伊勢神宮遥拝所 」。 このさきには " お伊勢さん " が、 おられるのです。 手水舎より奥入ると… 「 右山上伊勢遙拝所道 」 倒木は 片付けられていましたが… サンダルやヒールではムリです。 見下げると… かなりの急勾配を 実感します。 「 京都一周トレイル 」の コースになってるんです。 南東を向いた鳥居の先には、 伊勢神宮 …その昔は、 ここから見えたとか… 見えなかったとか。 知らんけど(笑) 振り返って北西を見下ろすと… 平安神宮 でその奥の、 緑は 京都御所 です。 この山で一直線に 結ばれるのです。 そうこの大鳥居です。 神宮の多くは実は近代に 入ってからのものが多く、 朱塗りの社殿は、 第4回内国勧業博覧会 に 建てられたものを 転用したものなのです。 神宮とは天皇や皇室の 祖先神を祭神とする社号 のことでかつては、 新たに名乗るには、 勅許を必要だったのです。 日向大神宮には、 実に多くの神さまが 座しておられます。 「 朝日天満宮 」 菅原道真公と少彦名命 手水舎にほど近くにある 朱の鳥居は狐さま。 神田稲荷神社 弁財天を祀る厳嶋神社 イザナギとイザナミの ミコトを祀る 多賀神社 「 福土神社 」は縁結び フクドと読みます。 で… 猿田彦命 は?? 外宮の手前にひっそりと… 猿田彦神社 と花祭神社 花祭(かさい)神社 には、 コノハナサクヤヒメ。 天鈿女は恵比寿と一緒、 なぜ木花開耶姫なのか? 木花咲耶姫は猿田彦命の 妻神である天之鈿女命とともに、 配祀として 祀られている神さまですが… 交通安全・安産守護とあります。 富士山を抑える役目 を 果たしていたともされる 木花咲耶姫… 荒ぶる神である猿田彦命は、 あえて外宮の手前に… 夫婦で日向大神宮を 護っているという ことなのでしょうか… 神域はこの山全体で、 そこかしこに鳥居が 立てられています。 伊勢一の宮の 椿大神社 でも、 猿田彦命ともに 祀られていたのは、 瓊々杵尊 、その母 栲幡千々姫命、 そして瓊々杵尊の妻 木花咲耶姫でした… 日向大神宮は 伊勢と日向を 体現できる場所 … 言うなれば イイトコドリの お伊勢参り が出来る スポットなのかも知れません。