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猿田彦のミチを開くvol.8 蚕の社と神座

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「 鳥居を越す 」という コトバをご存知でしょうか 「経験を積むこと、  老獪になること 」の意。 狐が何度も鳥居を 飛び越すことで、 稲荷大明神 に… と考えられてきたとか。 蚕の社 で知られる木嶋神社。 参道には 蚕養神社 の扁額。 灯籠もありました。 本殿に向かって右が 蚕養神社です。 本殿石垣には 「文化十四年 西陳 縮縮緬仲間」 の 碑石が据えられています。 おそらく西陣でしょうね。 正しくは… 木島坐天照御魂神社 。 このしま あまてるみたま と読みます。 末社… 猿田彦命 は、 祀られていないとか… 鳥居をくぐることは、 俗世との境界線を “またいだ” ことを 意味しています。 ただ鳥居の起源は、 実ははっきりとしません。 天照大神が天岩戸隠れ 、 常世之長鳴鳥 を集めて 鳴かせるた時、 鶏たちの止まった木が 鳥居の起源であると… 神社的な説明は こんな感じです。 木嶋神社の祭神の筆頭は、 天之御中主神 でして、 『 古事記 』に記される 天地開闢 「天地初発之時」に 登場する造化三神の 三柱の神の筆頭なのです。 本殿の神紋は 葵 の提灯。 元糺の池 、 元糺の森 があり、 秦氏へのここでの神事が、 神事を賀茂氏の 下鴨神社 に遷されたとか… 葵紋 はその顕れかも。 いまは 元糺の池 は、 涸れてしまいましたが、 かつては池の水の中に 三柱鳥居 ※が浮かび… 神事が行われていました。 三柱鳥居の中央には 組石が置かれ、 中心には御幣。 本殿の祭神である 天之御中主神の神座 で、 宇宙の中心を表し、 全方位から拝することが できる場所とされています。 『 日本三代実録 』には、 元慶元年(877)に 朝廷より祈雨の奉幣が 行なわれたとの記述。 かつては、 雨乞いの神の信仰 が あったのです。 葛飾北斎の『 北斎漫画 』 十一集にある「 三才鳥居 」。 北斎の描くのは 木製の三柱鳥居で、 水の気配が感じられません 。 初編の刊行は 文化11年(1814)のこと、 水はあったのでは? 実物を見ないで描いた? 構図を優先させたのか? 境内にある石灯籠… 「 磐座宮廣前 」と 刻まれています。 巨石が磐座でないことは、 椿大神社の御船磐座 を 想起させる佇まい。 三柱鳥居は磐座を 囲うために作られた 神籬(ひもろぎ) と みられています。 「ひ」は霊...

猿田彦のミチを開くvol.7 京都三庚申の猿田彦

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京都市右京区、 天神川三条 にも 猿田彦神社 がありました。 扁額は 伊勢の 猿田彦神社 と同じ。 創建は平安時代と伝わる 京都三庚申 の一つで、 庚申の日には多くの 参拝者が訪れます。 別名「 山ノ内庚申 」。 「 庚申信仰発祥の地 」 ともいわれているとか… 天台宗開祖である 最澄 が座禅のために、 霊窟を探していたところ… 猿田彦大神が現れ~~ この地を指し示した… 最澄が座禅石の傍らに 猿田彦大神を 祀ったことが始まり。 後嵯峨天皇 の行幸にも 猿田彦が現れ、 道案内を務めたとされ、 後嵯峨天皇の命で 社殿が建立されたとも。 古図によれば、 三条通り側に鳥居があり、 旧社地は少し北方に、 修験道者が滝行で 身を清めた 愛宕詣り との繋がりがありました。 ちなみに1885年に、 この場所に移築ですが、 行場の名残りがこちらに… 火伏の神、 秋葉明神 。 そして南側には 不動明王 、 観世音菩薩 、 地蔵尊 が 祀られています。 大国主命 も居られました。 1980年が60年毎に 迎えた庚申の年に 行われた神殿修覆の際に、 礎石に使われていた 「 あたごへ二里半 」との 道標の文字は旧社地を 偲ばせるものとされています。 庚申信仰とは 十干十二支の庚申の日、 庚申講 で集まって 猿田彦大神 や 清面金剛 の 軸を掛けて、供物を捧げ、 夜を明かして萬福招来を 祈願したものです。 なぜ夜を明かすのか? 人が寝なければ、 「 三尸(さんし)の虫 」 ※ が、 体から抜け出して、 罪過を天帝へ 告げに行けないそうです。 60日に一度巡ってくる 庚申の日の夜、 チクリにくる んですね… そうされないように、 夜を明かすんだそうです。 「 庚申待ち 」と 呼ばれた風習です。 ここでの猿田神社では、 神使は「 猿 」でして、 そこかしこに… 拝殿の 蟇股 とか… 本殿にも木彫の 庚申猿 。 妙にリアルな老猿。 こちらは「 白猿木彫像 」。 台風被害で倒れた御神木で、 彫られたというもの。 普段は非公開 ??なのですが、 社務所に鎮座していました。 樹齢700年の「 庚申楠 」 見ざる、言わざる、 聞かざるの 三神猿 。 神使の猿像とは 別モノでして… 「自分たちの罪状を 見聞きしたり、天帝に 告げないで欲しい」 との 願望を表現したものとか。 「庚申待ち」に 通ずるおサルさ...

猿田彦のミチを開くvol.6 猿沢の池

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「 ならまち 」に向かう道すがら ここにも 猿田彦神社 があります。 創建は平安時代の9世紀初め、 平城天皇の時代に遡るとされ、 もとは「 元興寺 」の 境内社であるとされています。 宝徳2年(1450)の 元興寺の大火 を期に、 再々の火難に遭い、 この地の小祠が再建。 南側には同じような姿の 「 住吉神社 」がありますが、 猿田彦社は門は開かれており、 誰でもお参りができます。 「 道祖神社 」とも呼ばれ、 道祖神や開運の神、 勝負事にご利益のある 「賽の神」としていまなお 信仰を集めています。 注連縄を張った巨石が 賽の神さまでして、 道祖神信仰の“ 陽石 ”は、 サルタヒコの高い鼻 に 通じるものです。 由緒書きには 「当社は、往古より道祖神・  塞の神として名高く、   道開きの神 ということから  商売繁昌・開運招福の神  として崇拝され、  また良縁・安産の神として  婦人の信仰が厚い」と… 江戸時代中期に明和年間に、 「 村のよめ道祖神に 願をかけ 」 と詠まれた社。 合祀の「 イチキシマヒメ 」は、 宗像三神の一座 です。 市杵島姫命 は、 第二代倭国王である 大己貴命が宇佐にから宗像に 連れ出した姫。 猿田彦命は、市杵島姫と 結婚 したとされています。 天細女命 は??? 猿沢池の西北畔にある 采女神社 (うねめじんじゃ)。 こんな感じで閉ざされている ことが多いのですが、 お昼過ぎに蔀戸が上げられて お守りや御神籤などが 授与されていました。 奈良時代、 天皇の寵愛が衰えたことを 嘆いた天御門の 采女 が 猿沢池に入水、 その慰めに建立されたとか。 由緒書によれば、 「自分が身を投げた  池を見るのは忍びないと、  一夜の内に  社殿の向きを変えた」 と… ただ… 釆女社 が 史料で確認できるのは、 15世紀からのことで、 江戸時代初期に一時、 社殿を東向きに建替えとも… 江戸中期に著された 『 奈良坊目拙解 』には、 もとは興福寺別院の北東隅、 在家に渡ったことで、 東から出入りするようになり 鳥居が...