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コンクリ城 其ノ壱 伏見桃山城

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「 コンクリ城 」??? こんな定義 あるかどうかわからないけど、 日本には天守を持つ お城は沢山ありますね。 天守の分類はこんな感じ… 「現存天守」「復元天守」 「復興天守」「模擬天守」 現存12天守は、 弘前城、松本城、丸岡城、 犬山城 、彦根城、姫路城、 松江城 、備中松山城、丸亀城、 松山城 、宇和島城、 高知城 … 弘前、丸岡、宇和島 ってのは、 なかなか制覇できない場所だから、 虎次郎もこの 3つは未制覇 です。 そもそも伏見という場所は、 古くは水運に恵まれた 大坂と京都とを結ぶ要衝。 歴史的に一番始めに作られたのが、 朝鮮出兵前の1592年(文禄元年)に 秀吉が隠居後の住まい「 伏見指月 」。 木幡山に再築されたのが 「 木幡山伏見城 」 その後 伏見城の戦いで焼失… 立てこもっていた徳川家臣らが 自刃した建物の床板は、 養源院 などで「 血天井 」として 伝わっています。 1602年(慶長7年)ごろ 家康によって再建されたが、 1619年(元和5年)に廃城。 建物や部材は 二条城 、 淀城 、 福山城 などに移築されたとか。 福山城に遺された「 御湯殿 」 で…伏見桃山城は 復興天守?それとも模擬天守?? その違いのポイントは 「そのお城に天守が  当時存在したか」ってこと。 江戸時代の天守とは 位置も外観も異なるので、 「 模擬天守 」なのです。 かつて存在した遊園地 「 伏見桃山城キャッスルランド 」 のシンボル的存在で、 6億円をかけての鉄筋コンクリ城。 閉園後に無償で京都市に贈与、 ただ耐震基準を満たさずで、 内部は非公開 なんだそうです。 思い起こせば「 そろばん塾 」の 遠足で行ったことがあるけど、 中は見たのかはどうかは、 あまり記憶がありません。 ときどき時代劇シーンに 使われているとか… 秀吉の黄金の茶室 とかも あったとか… で… コンクリ城シリーズ 其ノ弐があるかどうかは???

松坂屋の理想郷〜揚輝荘⑥ 近代別荘建築の特徴とは?

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明治期以降の近代的な別荘は、 賓客接待を目的とし、 都市近郊に構える形式 。 高原や海浜に構える形式 、 大農場経営を目的に 農場の一画に構える形式 。 揚輝荘は伊藤家本家 茶屋町から約5キロ、 1911年には電車 覚王山線も 開通していていましたから、 都市近郊における 「 賓客接待型の別荘 」でした。 名栗 の階段を上がり2階へ。 1階と同様にホールを取り囲んで 部屋が配置されています。 階段沿いには造り付けの 物入れが設えています。 車寄せ の上の部分は図書室に、 三面に窓を設けてよい眺望。 旧応接室 「 支那の間 」と呼ばれた 中国様式の寝室B 地下室と同様に、 工事途中で中国様式に 変更されたのはここです。 天井に 鳳凰 の彫刻 奥まったところに和のテイスト 畳敷きの和室がありました。 化粧室? 豪商伊藤家の当主である祐民が、 各界の名士との交流の場 として 造営したのが揚輝荘でした。 ただ祐民にはもう一つの顔が、 社会事業と国際交流活動です。 いまはなき東園に タイやビルマ・中国 などの 留学生のための施設として、 愛知舎、衆善寮 などを建設。 1940年に祐民が没した後も その精神が受け継がれ、 時局が戦争へと傾倒するなか、 戦時体制とは思えない 近隣アジア留学生と日本人学生の 自由な交流の場でした。 単なる金持ち別邸ではない… そこに揚輝荘の オリジナリティがあるのです 。 このブログは 「揚輝荘と祐民ー   よみがえる松坂屋創業者の理想郷 」 を参考にしました。

松坂屋の理想郷〜揚輝荘⑤ ジャータカの地下室へ

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聴松閣には地下室 があり、 そこにはブッダ前世の物語 「 本生譚(ジャータカ) 」の 場面の一部が描かれている 空間が広がっています。 伊藤祐民 は1933年のはじめ、 名古屋商工会議所会頭と 松坂屋の取締役社長を辞します。 社会事業に傾倒するのですが、 なかでも多くの時間を、 シャム (現在のタイ)、 ビルマ (現在のミャンマー)、 インド などへの訪問、 そして日本への紹介に費やします。 西インドの アジャンター仏教石窟群 、 第二窟に描かれた仏伝図 「 兜率天上の菩薩 」の写し。 兜率天は釈迦になる前に 菩薩が過ごす場所で、 菩薩が中央に描かれています。 こちらは釈迦の 母となる マーヤー夫人 が、 白象が胎内に入る夢をみた… その夢占いの場面。 生まれる子が転輪聖王か ブッダになる と占い師から 説明を受けているシーンです。 地階広間の付柱には、 カンボジアの アンコール・ワット がルーツ。 地階広間から 饗宴場 へ… 東側が半円形の舞台で、 ビロード式のインド文様緞帳 も 当時の意匠で復元されています。 こちら舞台裏 舞踏場西面には踊る女神像の レリーフを頂く マントルピース 。 祐民はインド旅行中に 多くの写真を撮ってきますが、 そのうち特に気に入った 建物のデザインを選んで、 この地下室に散りばめたのです。 この場面は 長谷川傳次郎 の アンコール・ワットの写真集 『 仏蹟 』にまったく同じ写真が 掲載されているとか… 聴松閣に訪れた友人・賓客に、 仏蹟巡拝の感動を、 熱く語っていたのでしょうね。 饗宴場の 付柱の柱基 には、 18世紀頃のインド・イスラームの 宮殿でみられる植物文様の 象眼細工が施されていました。 ヒマラヤ の風景が エッチングガラスが嵌め込まれ、 中央には造り付けのソファー。 『 揚輝荘主人遺構 』という書物には、 「正面にみゆる  雪嶺 カンチェンジャンガ  を写したる硝子彫刻にして  外部の窓より採光し、  夜のために照明が仕込んである。」 ガラスの裏側を覗くと… 地上からの光が降り注ぐ。 採光スペースの手前の 小区画にある女性像が 嵌め込ま...