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『百日紅』浮世絵伝〜善次郎こと渓斎英泉

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「池田善次郎」こと 渓斎英泉 の 《 傘に美人(瓢模様) 》… 粋な江戸の装いを引き立たせる蒼。 「 北斎ブルー 」とも呼ばれる 青い鉱物顔料・ベロ藍ってのです。 江戸後期にオランダを経由して 日本に入ってきた化学顔料で、 ベルリンで最初に作られたもの。 ベルリン藍がなまって「ベロ藍」 と 呼ばれるようになったと言われています。 《 玉屋内花紫 》 浮世絵ってファッション誌のようなもの。 流行に敏感であるということは、 浮世絵師は当時の 工業デザイナー でも あったように思います。 浮世絵の技術が進んだ江戸後期は、 芸術というよりも商売の道具でした。 《 美人東海道のうち 日坂駅 廿六 》 北斎や広重な浮世絵の巨人たちを、 歌川国貞 や 渓斎英泉 のように、 のちの時代には名前さえも 忘れ去られる存在の浮世絵師たちが、 浮世絵という芸術の裾野 を しっかりと守ってくれたお蔭にて、 いろんな趣味趣向が求められる イマに至って“美術史的”な 評価を受けつつあるようになったのだと… 《 当世まつの紫 傾城音羽の滝         新内なかし 》 英泉の画風って??? マジメな学者たちを悩ませていました。 写楽なら役者絵とか、 歌麿なら美人画といったくくりがしづらい。 英泉は商売のための量産タイプ。 《 江戸八景 両国橋の夕照 》 風景画の構図もなかなかヨスです。 浮世絵にかぎらず展覧会で絵をみると、 どこか気むずかしく静かな 仄暗い場所で 鑑賞させられる 。 ただ、浮世絵が生きていた時代は、 “ 枕絵 ”とも言われていたのですから、 恭しくは扱われてはいなかった ということ。 《 契情道中双録 尾張屋内 満袖 》 浮世絵らしくないって評価。 「 浮世絵戦国時代 」にあってその多くは、 まさに“使い捨て扱い”だったのですから、 至極当然なのかもしれません。 たった 200年前の話ゆえに、 新しいものをただ追い続けてきた 日本の歩みは駆け足過ぎだったのでは? 在外に遺る浮世絵師たち の業績に 再び日本で触れると、 古めかしくない新しさを感じます、 遠い昔と思っているけど… 実はつい昨日の...

『百日紅』浮世絵伝〜初五郎こと魚屋北渓

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『百日紅』にはいろんな 浮世絵師が登場していました。 もとは 杉浦日向子 さんが 24歳のときに 手がけられた作品で、 確かな時代考証によるものなのです。 シリーズで 応為の人脈 をたどります。 「 岩窪初五郎 」 北斎の門人で、 もとは魚屋であったことから、 画号は 魚屋北渓 (ととや ほっけい) 。 魚商から浮世絵師に転身したとか。 一説には松平志摩守出入の 魚屋であったとも伝わります。 34歳にして独り身。 劇中では応為である「お栄」が 想いを寄せる相手として登場しています。 《 鬼若丸の鯉退治 》(1830-35 天保年間) 彼の錦絵の作品はそれほど多くなのですが、 ボストン美術館 のコレクションでして、 なかなかの圧倒感をみせています。 鯉は龍につながる魚 ですので、 荒れ狂う気性と対峙する鬼若丸の姿。 鯉をさばくことも業としていたから、 魚の表情がなかなかヨスです。 鬼若丸とは 武蔵坊弁慶 のこと。 比叡山横川の池で身の丈八尺もある 巨大な鯉が暴れ、女子供を食い殺し、 人々を苦しめていた。 それを聞いた鬼若丸が短刀ひとつ携えで、 池に飛び込み見事に鯉退治という伝説。 山車などの彫り物にもみられるお題。 《 江島記行 神奈川 》  (神奈川県立博物館) 江の島土産などを描いた作品。 蛸、河豚、平目 、赤い魚は ホウボウ ? 盆に隠れそうな 沢蟹 もいます。 魚がのる盆には朱で「はねさわ」、 神奈川宿の青木町にあった旅籠の名です。 北溪の師譲りの観察眼が発揮された逸品。 画号は葵岡、拱斎、葵園、 呉北渓などを使い分けたようです。 寛政12年頃から嘉永元年のころ、 1800から1848年にかけて 彼の画歴が認められています。  《 諸国名所 駿州 大宮口登山 》       (1834-1835) 魚物でないものを… 目玉おやじがウジョウジョと。。。 諸国名所ではこんな風景も描いています。 駿河湾から甲州へ入る道のひとつ、 吉原湊から大宮へその後本栖湖から 甲府に入る「 駿州中道往還 」といわれる 街道沿いに「大宮口」があります。 ...

映画『百日紅』にみる江戸の結界

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近ごろよく聞く ボーダーレス ってコトバ。 しかし何事にも区別があり、 時にはマイナスと思っていることが、 「強み」に転じることがあります。 『 百日紅 』という映画では、 結界という言葉が何度か登場しました。 「結界」とは俗な世界と 神聖な世界を区切るもの。 それはときには修業の場として、 積極的に必要として求められていて、 山門や鳥居などによって結界を示しています。 [以下 映画ネタバレありですm(_ _)m] 映画中では「もののけなる」ものが、 なんどか登場しました。 応為が描いた地獄絵に気病となる女性、 地獄にも仏を描くことで収まります。 《 文昌星図 》葛飾北斎 画 北斎の手が夜な夜な伸びて、 いろんなところを駆け巡る。 このままにしておくと… 離れてしまうのではないか。 花魁は首がのびるものがいるとか… 北斎自身のことは、 自分自身の繰り言だと言いますが、 《富嶽三十六景》を観ると、 縦横無尽に飛び回れたから、 こんなのが描けたのやと思いたいのです。 富嶽三十六景のうち 《 御厩川岸より両国橋夕陽見 》 (おんまやがしより りょうごくばし ゆうひみ) ちょっと影絵のようにもみえる富嶽の情景。 群青のシルエットとなって浮かぶ富士、 うっすらと染まっていく夕暮れの空。 輪郭線という結界はないけれど、 昼と夜とのはざまを橋が 分け隔てているのかも知れません。 そして…江戸の男たちが、 現実を忘れるために遊びに来た「 吉原 」。 現世と隔絶されたた夢の異世界は、 華やかで洒落の分かる場所でした。 女性の地位が低かったと 言われた時代においても、 遊廓は例外で身分差はなかったそうです。 一流の花魁は美貌だけではない、 芸に秀でて、教養も身につけた女性。 現代ならキャリアウーマンというところか。 《 空満屋連和漢武勇合三番之内    大井子と樊噲 (はんかい)》 応為が吉原へ出入りしていたことは、 映画のなかでも出てきます。 絵にある酒樽には「大ゐ」(おおい)とあり、 北斎が描いた応為とみられています。 酒と彼女の俗名 栄(さかえ)で洒落たのか、 彼女の豪傑がにじみ出ているように見えます。 江戸のもうひとつのボーダーレス。 「 困ったときは お互いさまだよ ...

100年早く生まれた女絵師・応為〜映画『百日紅』ぬ

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江戸の風景と人々の暮らしを 描いた杉浦日向子さんの原作を 映画化した 『 百日紅 』 (さるすべり) を 観てきますた。 大学で美術史を学んでいたころは、 絵画の専門の先生から 「浮世絵以外なら指導できる」と。 1980年代の美術史研究は、 浮世絵研究は本流ではありませんでした。   AERAのインタビュー記事で、 主役・お栄(応為)を演じた 杏さん、 こんな風に答えてはりました。 最初にお栄の作品を見た時に 「この絵を女性が描いたのか」 と。 衝撃を受けました。 西洋の技法を取り入れながら、 それだけではなく、 独創的な世界をつくっていること。… 映画のエンドクレジットにも登場の 《 吉原格子先之図》 。 夜の吉原遊郭を描いた、 妓楼の「張見世」 (はりみせ) の光景は、 室内の行灯から外に格子があって、 ゼブラで遮られています。 でも、なぜか一番手前にいる花魁、 提灯に一番近いとこに居るのに、 かえってシルエットだけで登場。 ところでこの花魁… 実は 応為 自身じゃないかぁと思う。 虎次郎の勝手な解釈なんですけど… 北斎の娘として、 絵師のもとに嫁いだことがあるけれど、 その後 北斎の元へ戻って、 仕事を手伝い孝行に励んだのだと。 「 ゴーストアーティスト? 」ではとの、 映画の劇中にも出てきたエピソード。 「 美人画は応為のほうがうまい 」と 評価があり北斎を唸らせるほどの力量は、 版元や摺師たちからも 一目置かれてていたのだと想像されます。 《 三曲合奏図 》葛飾応為 画 でも・・・ 応為のものと伝わるものは少ないので、 彼女の息づかいを感じるのは難しい。 絵師、版木を彫る彫師、 摺師といった人たちに、 きっと取り囲まれていたのだと思います。 北斎という光源があまりにも強すぎて、 影にならざる天命を宿していた のでは。 そんな風に思えた映画でした(・ω・)v 女の人が女として売り買いされる場、 花魁たちの顔は ほぼ黒塗にて消され、 男子と同じような活躍を許されない、 ということにあがらうことよりも、 光と闇を操ること...

ヒロシマ爆心地から370m〜広島護国神社

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毎年 広島カープが優勝を祈願する 「 広島護国神社 」かつては、 旧市民球場の周辺にあったそうです。 ヒロシマ1945.8.6を 生き延びた大鳥居、 広島城址の西側 中国放送本社側に 移設されています。 (旧広島市民球場跡地に姿を現した  旧広島護国神社の鳥居の台座) 「中国新聞」HPより転載  ところで… 昨年の原爆の日は、被爆後43年ぶりの 雨が降ったそうですね。 被爆当時は爆心地に間近にあったため、 すべてが一瞬にして消え去ったのです。 その後、 小祠がお祀りされていたのですが、 紆余曲折を経て広島城址の 現在の場所に移られたそうです。 「 ひろしま護國 」にある写真は、 被爆直後に 林重男 さんが撮られたもの。 そこには被曝してもなお壊れなかった 鳥居・狛犬一対・石灯籠の姿があります。 唐銅製の狛犬… 戦時苛烈になって物資とぼしくなり、 当時その不足を補うべく出された 「 金属類回収令 」。 寺院に対しては仏具まで供出させた 強制力が神社へもとの意見は高まり、 「護国神社」であるからこと、 供出されるべしとの意見が高まったとか。 この狛犬を美術的価値ありとして、 判断したのは当時の宮司さんは、 厳島神社宮司も兼務の 足立達さん 。 ほかの神社からは猛烈な異論があり、 おひとりで矢面に立たれたのだそうです。 「なんとか供出を免れたため  今でも境内の入口に厳然と  立っている姿をみるにつけ、  殆どが原爆被害によって失われた  広島市内における、  私に繋がる思い出の狛犬となり、  何ともたとえようのない懐かしさ、  うれしさをしみじみと感じた」と… 広島になぜいまも護国神社?? 占領下の神道をとりまく立場は、 非常に困難を極めていましたから、 1947年8月4日に 広島神社 と改称。 翌8月5日 旧社地に仮殿を造営、 厳島神社に一時保管されていた 御霊代が奉還されて、 1948年8月6日に第1回原爆死没者 ならびに一般戦没者慰霊祭が 執り行われたのがここなのです。    ...

ヒロシマ爆心地から160m〜広島県産業奨励館

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かつて 雁木タクシー でみた、 太田川からみた原爆ドーム。 1915年(大正4)に広島県内の 物産品の展示・販売をするトコロ。 設立当初は 「広島県物産陳列館」、 その後「広島県立商品陳列所」、 1933年には「 広島県産業奨励館 」に。 設計者はチェコの建築家ヤン・レツル。 一部鉄骨を使用した煉瓦造、 石材とモルタル外装の豪奢なもの。 広島のランドマークだったのです。 この模型は、 4歳の時に被爆体験をされた、 ボランティアガイドでもあり ステンドグラス工芸作家の 寺尾興弘 (おきひろ) さん(73)が、 2年の歳月をかけて、 自作されたものなのです。 屋根は銅板で覆われていましたので、 緑青 (銅の錆び) が出てきていたころ。 夜になれば、 きれいな緑色の姿を太田川の水面に、 映し出していたのだと伝わります。 正面玄関部分はこんな感じ… 寺尾さんの模型は、 現在の姿のものもありました。 爆心地は広島県産業奨励館の裏手、 相生橋の南西にあった 「 島病院 」とされていますから、 太田川側は往時をしのぶことができます。 当初の投下目標は上空からみると T字に見て取れる 相生橋だったのですが、 風の影響により流されたのだそうです。 今回の水面からの原爆ドームの姿は、 宮島と原爆ドームをつなぐ直行便ゆ。 世界遺産航路 にて移動!! 水路でつなぐ乗り換えなしのラクラク。 宮島3号桟橋から〜〜 35人乗りの高速船にて。 強行スケジュールのなか… 宮島もやっぱ抑えておいたのです。 厳島神社を訪れた時間は、 干潮のピークでした!! 拝殿奥にある 反橋も桁下までクッキリと。 ちなみに厳島神社は、 ヒロシマ爆心地から16000m 。 16kmほど離れていて、 なおかつ爆心地に対して 横向きの入り江にあたっているので、 爆風もほとんど受けなかったとか。 時間のないなかにありながらも… 至極当然 焼き牡蠣 を頬張って。 おなじみの参道「 梅山 」さんに 開店前なのに無理を言って。 「 あなご飯弁当 」を船内に持ち込んで、 まさにエエとこどり(・ω・)v 広島市内に入るとスピードを落として、 デッキに出させてもら...