京の冬の旅2023+ 足利歴代像と家康像

庫裏に入ると"室町将軍" 足利義満の首
ポスターは2019年に九博で行われた
特別展「室町将軍 戦乱と美の足利十五代」。

尊氏像の面立ちをみると、
僕たちが学んだ尊氏の姿とは、
まったく違った表情をみせています。
衣冠束帯に威儀を正し、
右手に笏を執り、
両足先を交叉させて上畳に座る姿。

ぼくたちの日本史の尊氏の姿…
今は《騎馬武者像》と称される。
松平定信編『集古十種』で紹介、
ただ腰太刀と馬具の鞖に"輪違"、
足利家の家紋ではなく。
高家の家紋が"輪違紋"であり、
像主は高師直かその子
師詮ではないかとする説。
尊氏か否かということも含め、
京博に遺され重文の価値を持つ


足利義詮像
尊氏、義詮、義満の三代の木像、
1863(1863)年2月22日の夜、
首が引き抜かれて三条大橋で曝された

首にはそれぞれの位牌を掛け、
逆賊」と題した宣告文…

《足利義満像》
「名分を正すべき今日にあたり、
鎌倉以来の逆臣一々吟味をとげ
誅戮(ちゅうりく)いたすべきところ、
この三賊は巨魁(きょかい)によって、
まず醜像へ天誅を加うるものなり」
伊予の三輪田綱一郎
水戸の師岡節斎など、
宣告文は会津の大庭恭平
尊王攘夷派の志士たちの所業

《足利義昭像》
等持院の歴代木像は文化5年の火災、
その時にも異変を生じている。
「あす僧にきいたはなしだが、
 相國寺の等持院の足利将軍の
 歴代十三代の木像が、
 十余年むかしの火災のとき、
 焼失をおそれて池に投げ込まれた。
 火がおさまって
 木像を引き上げたところ、
 木像ではなく塑像であったらしく、
 ひとつのこらず壊れていたそうだ


足利義政像
水戸松前藩主の松浦静山という人、
随筆の名作とされる『甲子夜話』、
48歳のときに記したものとか。
相國寺は天龍寺の間違いだろうが、
悪人が騒ぎに乗じて木像を隠し、
「塑像」と噂を流布して
木像を売ろうとしたのが真相


《足利義勝像》
9歳で将軍になるが8カ月で病没。
父 義教は義満の子"くじ引き将軍"、
強権的で最期は殺害される。

歴代木像の祀られる霊光殿

カメラNGなので…木像はHPより。

絵葉書にはズラリと会する足利歴代。

その中にひとつの異彩を放つ像、
京極渡辺玄春作の《徳川家康像》。
『等持院小史』によれば
「徳川家康公御自作、四十二の肖像」、
家光が石清水八幡宮の豊蔵坊に寄進
天下泰平国土豊穣を祈念。
ただ…明治維新の神仏習合禁止令
豊蔵坊住持が委託し、寄進されたもの。
恰幅のよい老貌の東照大権現とは
一線を画すが墨書銘によると、
1691(元禄4)年6月吉日。
らしくないとの評の"松潤の家康"…、
こちら壮年像ならば納得がいくやも・

文芸評論家の尾崎秀樹(ほつき)は
司馬遼太郎の世界』でこう記す。
「この等持院の尊氏の墓を、
 幕末の志士高山彦九郎は
 逆臣として鞭打った
ことがある。
 その話が志士たちの間に
 伝えられたためであろうか。
 文久三年二月には霊光殿から
 尊氏、義詮、義満三将軍の
 木像が首から盗み出され、
 三条河原に晒された。
 逆賊の三巨魁に天誅を加える
 という意図だったが、
 ねらいが徳川幕府批判に
 あったことはいうまでもない

 義満の木像の眼は
 そのおおくりぬかれて
 傷をうけたという。」

茶席で一服…

足利家家紋「二つ引両」の茶碗。
もともと"引霊"という字が、
時代を経るにつれて変化したとか。
旗に「八幡大菩薩」など神霊号を記し、
下に黒い線を引くという習慣があり、
いつしか神号を記すことがなくなり、
黒い線だけが残ることになったもの。
芙蓉の月」とともに、
歴史の刻みを感じ入りました。

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