THE FORMER NARA PRISON Vol.2 ~甦る場


12時の入場時間までたっぷり
いろんなとこを観て…
いよいよ特別公開スペースへ。

門を入ると庁舎が聳え立つ。
桟瓦葺
(さんがわらぶき)の屋根に
銅板造り青緑色の尖塔を戴く。

尖塔の上部の避雷針は、
後年のもの。

半円アーチ窓櫛形窓
左右対称に並びます。



上部は楔形のレンガの
アーチ状の配置は、
耐荷重の構造を担っています。

庁舎は建設当初は「事務所」と
呼称されていたそうです。
全面の横長の長方形平面の
棟は事務関係諸室。

いろんな窓があって飽きない。



庁舎の玄関部分は
三角屋根の庇を頂く。



庁内へ…



庁舎内の階段の手摺

刑務所ということを
忘れさせるディティール。



講堂は600人以上の受刑者を
収容することができ、
通信制高校の入学式、講演、
慰問等に使用されたほか、
雨天時の運動場としても
使用していたとか。





窓から見える拘置監、
遠くにみえるのは若草山か。




設計者である山下啓次郎さんは、
孫であるピアニストである
山下洋輔氏の著書『ドバラダ門』

著書によると…
啓次郎の父親・
山下龍右衛門房親
(りゅうえもんふさちか)という人は、
薩摩藩出身だったそうで
西郷隆盛と戊辰戦争を
共に戦ったとあるそうです。

明治政府でポリス制度の立ち上げに
携わったという人でもありました。
啓次郎は帝国大学造家学科を
卒業後、警視庁に入庁…
その後司法省営繕の技師に。

奈良監獄は実に竣工時の姿を
よくとどめていると言われています。
庁舎と舎房には、

大きな改変はありません。

講堂を出ると「クラブ活動室」と
札の付いた部屋がありました。

床面は腐食した部分も…

もともとは別の用途だったのかも、
室内からみると入り口の上部には、
ペディメント風の設えがあります。

反対側の部屋には…

青いカーテンに仕切られて、
天理教・仏教・キリスト教
紙が貼られていました。

もとは奥が天理教?だった???
「写真集 美しい刑務所」に
載ってるのと順番ちがうのナゼ?

実は奈良監獄は天理教教祖である
中山みきが勾留された
監獄でもあるのです。
記録によると…
「明治15年(1882)10月29日、
警察は中山みきら信者を呼び出し、
大阪府奈良監獄署に12日間勾留した。
明治17年(1884)

8月の勾留のときには
監獄署を出た中山みきは

多数の信者に出迎えられ、
警官が制止したが、

猿沢の池のあたりで、
一同が一斉に柏手を打って

中山みきを拝んだという。」

そんな奈良監獄の聖話室に、
天理教があるというのも…
不思議な感じがしますね。

奈良少年刑務所の篤志面接委員
務められた東大寺の僧侶、
上司永照さんはこう言われます。
「東大寺は聖武天皇が
 お造りになられたものです。
 聖武天皇は、

 天変地異や犯罪が起きたときに、
「責めは我一人にあり」

 とおっしゃいました。
 わたしたちの政治が悪いから、
 罪人を作ってしまったのだと

 おっしゃっています。」

刑務所は「受刑施設」という、
いわば罪を償う場所…
奈良少年刑務所に関することに触れ、
再犯防止のための「教育施設
だったことがわかってきました。

写真パネルでしか
見れませんでしたが、
受刑者たちが組を作って
競い合った煉瓦。

煉瓦を敷き詰めた通路には、
本来は見ることのない組の
印が見えるように敷かれているとか。

奈良監獄の工事は民間業者へ発注せず、
刑務作業の一環として、
受刑者が煉瓦職人とともに
監獄内で作り上げたものなのです。

建築に関わった受刑者は、
1906年(明治39年)だけで
15万人を超えていたとか…
とても大掛かりな事業でありました。


受刑者の労働力を活用との方針は、
設計者 山下啓次郎の意向に
沿ったものでした。
「更生という字を一つにすると
 「甦る」となります。
 まさに刑務所は、
 人間として甦る場なのです。」

篤志面接委員だった落語家
露の新治さんの言葉…
ぐっと噛み締めて次へ。


このブログは
「写真集 美しい刑務所
 明治の名煉瓦建築 奈良少年刑務所」を
参考にしました。

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