祈りのナガサキ

8月6日のヒロシマを見たことがある。
ナガサキに落とされたのは
1945年8月9日。
広島に続いての2発目の原爆は
北九州・小倉に落とされる
予定だったと伝わる。
小倉上空の雲が濃く、
第二目標のナガサキとなった。
長崎には三菱造船所と
兵器工場があったから…
原子爆弾落下中心地碑

投下目標は、
市内中心部の出島の近く中央橋あたりの
予定だったとの記録もあるが、
実際は4Km北にずれて…
日本のキリスト教の歴史上、
最も重要な建築物と知られていた
浦上の聖堂のほぼ真上で爆発
平和祈念像

爆心地近くに残るの
被曝遺構ではあるが
移設されてこの地にある。
平和公園に鎮座するのは、
あくまで戦後に建てられたモノ
北村西望の「平和祈念像」。

平和公園の丘には被曝当時は、
長崎刑務所浦上刑務支所」があった。
受刑者や未決囚、
看守とその家族134人全員死亡。
なかには中国、朝鮮人も含まれていた。
こちらも跡が残るのみである。

ヒロシマでもそうだが、
平和公園となり毎年執り行われる
平和記念式典の会場となる。
爆心地附近は整備されているのだが、
ナガサキにはシンボルが失われている

被爆50周年記念事業碑」彫刻家 富永直樹

ヒロシマから3日後に行われる
ナガサキはヒロシマと雰囲気が少し異なる。
怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」とも。

Aコール」彫刻家 ボリス・ゴンドフ

祈念像をはじめとして実に記念碑というか、
祈念碑が多く立ち並んでいたナガサキ。
「キリスト教という信仰の町だから...
でも宗旨をこえて
いろんな主張が許容されるってことか。」
と呟きながら多くの碑文や像の前に立ったのだが、
どこか何か違う雰囲気を感じていた。

ヒロシマの水辺に刻まれていた
メインモニュメントのコトバは
「安らかに眠って下さい 過ちは 
    繰返しませぬから」

ナガサキはーある日のある少女の手記から
「・・・・・・・・・・
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
      一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」

被爆者であり、キリスト教徒である
長崎大学医学部の永井隆教授が書いた
長崎の鐘 (アルバ文庫)』という著作が
大ヒットしたのらしい。
1952年に日本が独立した後の出版、
映画化されたことで藤山一郎の歌も大ヒット、
ナガサキは日本の誰もが知るようになった。

原爆の悲惨さを描いた作品は最初、
アメリカ側はその出版を許さなかった。
だが永井博士がキリスト教者として、
被曝を神の摂理として肯定的に捉え、
平和を祈りながら死んだことを知ると...
軟化したという。
折鶴の塔」(右)

ナガサキの原爆遺構として、
キリスト教会の廃墟が永遠に残るなんてこと。
アメリカとしては「バツの悪いモノ」、
はじめは市議会も市長も、
浦上の廃墟を「被曝の歴史」
としたかったようだ...
PEOPLE AT PEACE


浦上天主堂の廃墟を保存する」という決定、
覆すための動きがいろいろあったそうである。
高瀬毅さんの
ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」
には、いろいろと書かれていました。

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