2014年11月16日日曜日

ながさき洋館めぐり 大浦天主堂

「大浦天主堂」。
この教会の正式名称は
日本二十六聖殉教者天主堂」と言います。
大浦天主堂の竣工は1864(元治元)年。
幕末の外国人向け教会として、
1862年に横浜天主堂が完成していたのですが、
関東大震災で崩壊して現存せず。
大浦天主堂が日本に現存する最古の教会なのです。
そして「西洋建築」としても最古の建物です。

創建時の天主堂は正面に
3つの鐘塔があったそうですが、
明治初期の改築で現在の姿になりました。
内部は本格的なリブ・ヴォールト天井
1933年には旧制度下の国宝指定され、
ふたたび戦後の1953年に
改めて国宝の指定を受けています。
ちなみに西洋建築の国宝の指定は、
ふたつのみでして、
もうひとつは
東宮御所 迎賓館赤坂離宮」なのです。
階段をあがると温かく出迎えてくれるのが、
日本之聖母像」です。
プチジャン神父はこの聖母像を当初は、
天主堂の門前に据付て、
日本信徒発見の記念祭典を催したのだそうです。
その後の改築で聖堂が
2倍の大きさに広げられたときに、
現在のように入口正面に据付けられました。

「日本の聖母という称号は、
いま新たに聖母に捧げられたからというのではなく、
日本の教会は初めから聖母のご保護の下にありました。」
「教皇様が困難なこの国の布教を私に信託されたときに、
私は我が身も、我が教会もすべて慈悲深い聖母に捧げました。」
ということから、
プチジャン神父が命名されたと伝わります。

このレリーフには全世界を教歎させた
信徒発見の場面が再現されもの。
建立当時はまだキリスト教禁令が解けておらず、
教会はあくまでも外国人のためのものだったのです。
1865年に大浦天主堂を数十人の日本人が訪れて
神父に信仰を打ち明け、
二百数十年間も信仰を続けてきた
「隠れキリシタン」の存在が明らかになります。
この「信徒発見」と呼ばれる歴史的な出来事を、
イメージできるレリーフがこれなのです。

修学旅行のときはこの前で、
カメラに収まりました。

日本人神父の誕生を記念して作られた十字架、
そしてローマ法皇が来崎されたときの
記念の胸像もこのエリアにあります。

修学旅行のときにもここでもパチリと...

1597(慶長元)年、
長崎の西坂の地でキリスト教禁令のために
26人の信徒が処刑されます。
この事件はヨーロッパにも伝えられて
後に26人は聖人に列せられるのですが、
大浦天主堂は
日本二十六聖人に捧げる教会として
建設されたものなのです。

創建時の天主堂には側面に計24個の
尖頭アーチ型の窓があり、
正面玄関のバラ窓と主祭壇の窓を加えて
合計26個の窓があったことになるそうです。
窓の数は26聖人をあらわしたものだと思います。

古写真によると、この1864年当時の教会は、
ゴシックとイエズス会スタイルが混在、
立面の下半分がナマコ壁だったりなど...
今と随分と印象が違ったようです。
現在の姿になったのは、
1875年の増改築によるもの。
ゴシック様式として明治初期の教会としては、
なかなか端正なのは
「ゴシックやや控えめ」ということ。

教会堂の中は信仰の場であり撮影禁止、
まず目に入るのは見事なステンドグラス。
一際目を惹くのは、
中央大祭壇奥に掲げられたキリスト像。
さらに、
側廊や高窓にもシンプルな形の
ガラスを組み合わせた色鮮やかな
ステンドグラスで溢れていました。


1945(昭和20)年の原爆投下では
被害を受けました。
ただ、爆心地から離れていたことや
長崎市の地形の複雑さが幸いして
倒壊・焼失は免れたことで今に伝わります。

修学旅行の時は、
ただオノボリサン的に見ていたのです...

これがかの有名な信徒発見のマリア像。
浦上の隠れキリシタン達がプチジャン神父に
「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ね、
信徒発見のきっかけとなったマリア像。

「信徒発見のマリア像」と呼ばれるのは、
このエピソードによるものなのです。
向かって右側の脇祭壇に飾られています。
「信徒発見のマリア像」の写真は、
お土産屋さんで買い求めた絵ハガキより。

             (絵ハガキより)
設計はパリ外国宣教会から日本に派遣された
フュレ神父とプチジャン神父が担当、
そして日本人の大工棟梁が施工したものです。

「日本二十六聖殉教者天主堂」
 (大浦天主堂)
建築年:1864年(元治元)
改修年:1879年(明治12)
構造:煉瓦造および木造
設計:フュレ神父、プチジャン神父
所在地:長崎市南山手町5-3
【国宝】