2014年11月23日日曜日

ながさき洋館めぐり 浦上天主堂

もとの天主堂は東洋一のレンガ造りの
ロマネスク様式大聖堂
正面双塔にフランス製の
備えられていました。
再建は1959年(昭和34)の
鉄筋コンクリート造りで、
1980年(昭和55年)にあは
外壁が煉瓦タイルとなって今に至ります。
ところで…
長崎ではあの教科書で目にした踏絵制度は、
すでに安政3年(1856)に廃止されていたのですが、
寺請制度というのが続いていたそです。
浦上地区の信徒たちは、
表向きは馬込郷にある聖徳寺の檀家のままで、
キリシタンであっても、
仏式の葬儀を営むべしということだったそうです。

1867年(慶応3)春頃から亡くなった
潜伏キリシタンを檀那寺の聖徳寺の許可なく
自葬する親族が増加したのが
浦上四番崩れ」のきっかけとなります。
崩れ」とは、キリシタンが大量検挙され、
潜伏機関が崩れることをいいます。
神道を国教とする新政府により1870年までに、
約3,400人の浦上キリシタンが
西日本に分散され流罪となったそうです。

その後1873年(明治6)のキリシタン禁制の
高札撤去にともなう太政官令によって
釈放はされるのですが、
帰郷しても家も財産もないために
厳しい生活を強いられたのだそうです。
正面には「十字架のキリスト」。
破壊された像は信徒会館あったそうですが、
見れてないなぁ〜〜(TдT)

正面左手は「使徒聖ヨハネ像
原爆で鼻が欠けたものの
破壊されず残ったもの。
右手は「悲しみの聖母マリア像
原爆で指が欠けたが、
こちらも破壊されず残ったそうです。
内部見学もできました(・ω・)v
内部写真は絵ハガキより…
実はこの祭壇を手がけたのは、
浦上天主堂の信者さんで
キリスト教葬儀社を営む
栄光式典社の西村勇夫さんという方。
原爆投下当日も浦上天主堂に祈りに行き、
帰宅直後に被爆されたのだが、
奇跡的に一命を取り留められたそうです。
一級技能士の資格を取って独立され、
木工所を経営してカトリックの祭壇を
作る仕事をされてきたそうです。
被爆マリア像
木製の祭壇が聖堂に取付けられ、
イタリアから送られた無原罪の聖母の像。
西村さんもこの修復に携われたそうです。
マドリッドのプラド美術館にある
ムリーリョの「無原罪のお宿り」という
絵画がモデルに制作されたと伝わる
とても美しい像であったそうです。
在りし日の旧祭壇にの写真に
その姿が残されています。

長崎さるくにあった、
西村さんのコトバにて
括りたいと思います。

「浦上天主堂の祭壇もローマ法王が
長崎を訪問された時の祈祷台も、
私が作らせていただいたんですよ。
そして、そうこうしているうちに
周囲から頼まれて、
他には類を見ない
カトリック式の祭壇を考案し、
葬儀社を手がけるようになりました。」

「私がこうして仕事を
させていただいているのは、
原爆に遭っても
生き延びてきた者の宿命、
神さまの思し召しだと思い、
心から感謝しています。
今は、人生よくここまで生きてきたな
というのが実感です。」