2014年11月23日日曜日

ナガサキ被曝の浦上天主堂を訪ねて

ヒロシマは何度も訪れていたが、
ナガサキの爆心地へは初めて…
駆け足だったので原爆資料館見学の
時間は取れなかったのだが、
ナガサキの被曝の象徴
浦上天主堂」を訪ねた。
「被爆後の浦上天主堂」小川虎彦氏撮影
東洋一の壮大さを誇る「浦上天主堂」。
1945年(昭和20)8月9日 午前11時2分
まわりの壁をわずかに残すだけで、
まさにガレキとなった信仰の地。
この側壁は聖堂の南側の一部、
1958年(昭和33年)に新天主堂建設のため
爆心地にほど近い場所に移築されたもの。

爆心地から北東へ約500mの
小高い丘にあった浦上天主堂は、
1895年(明治28)から建築に着手し、
信徒たちの献金と労働奉仕により、
1914年(大正3年)に
献堂式が挙げられたとのこと。
壁上の石像はザベリオと使徒だそうです。
アカンサスの彫刻は
当時の荘厳さを伝えています。
江戸時代キリスト教弾圧の象徴的存在だった
庄屋屋敷の跡地に建てられたのですが、
原爆によってふたたび厳しい経験を
強いられる地になってしまったのです。
浦上地区のカトリック信徒約12,000人は、
ほぼ瞬間的に命を落としました。
爆死したとされる信徒の命は約8,500人
こちらは正面部の遺構。
現浦上天主堂の正面に置かれているもの。
手前から聖セシリア像イエスの聖心像
その奥の像は頭部の破壊でわかっていません。
浦上天主堂を背にする像にも
お顔がありませんでした。
どれも熱線で黒く焦げていて、
瞬間的な猛烈な爆風で
鼻、指、頭部などが失われていました。
まさに「破滅の時」が
止まっているかのようでした。
こちらは1945年11月23日に行われた
「合同慰霊祭」、
生き残りの信徒約600名が参列し、
浦川和三郎司教司式の死者のミサ。
天主堂は倒壊したので、
ミサにも行けないと思っていたところ、
9月になったある日、
聖フランシスコ病院の焼跡でミサがあると…
南側の半地下室に仮聖堂を移し、
日曜日のミサが
行われるようになったそうである。