ながさき出島へ

旧出島神学校」と「旧長崎内外クラブ」が
あったのは「出島」のなかにあったもの・・・
正確には「出島和蘭陀商館跡」。
路面電車が混み合っていたこともあり、
築町」電停で降りて西側ゲートから
上陸した(・ω・)v
ミニ出島」は1976年に制作された
15分の1の模型なのですが、
川原慶賀が1820年ごろに描いたとされる
長崎出島之図」が元になっています。

現在の復元事業は、
19世紀はじめ和蘭商館長ブロムホフ
商館医シーボルトたちが活躍した時代の
出島の復元を目指してるそうで、
川原慶賀の図に近いということ。
いずれ実寸大で復元されるのかも知れません。
そばに。。。
なんとも不思議な異国人が折り重なる
不思議な銅像がありました(・ω<)

ブロムホフとは??
オランダの長崎出島商館長。 1804年荷倉役として出島に着任、
11年ナポレオン戦争のためイギリス治下におかれた
バタビアの総督 T.ラッフルズが 
13年に前商館長ワルデナールを派遣して出島商館の接収を迫ると、
商館長 H.ドゥフを助けてこれを退け、
次いでイギリス当局と折衝のためバタビアに
おもむき捕えられてイギリスに送られた。
(『ブリタニカ国際大百科事典』より)
この「表門」はもとは
明治期の中島川変流工事によって
削られた部分にあったとされるもの。
江戸時代の頃は、対岸の江戸町側から渡ると、
ここに詰めていた探番(さぐりばん)
出入りする人を改めていたそうです。
安政の開国後に建てられた石造倉庫。
左手にあるのが「拝礼筆者蘭人部屋」。
帳簿などの筆記を行う
オランダ人の書記の長が住んでいた建物。
カピタン部屋」は出島で最も大きな建物。
オランダ商館長(カピタン)の事務所や
住居として使用されていたそうです。
日本の役人や大名などの接待場所としても
使われていたそうです。

出島は、
1636年(寛永13)に「出島町人」と呼ばれる
25人の町人の共同出資によって完成した人工の島。
建物も多くは出島町人たちが建てたものなので、
初期の出島の建物は日本式な建物だったのです。

ただ、出島のオランダ人のなかには、
費用を自分で負担して建物を
改装する人もいたとか。
緑色のペンキ
オランダ人が持ち込んだものですが、
洋風の手すりをつけたりしました。
ただ手すりをつくるのは
長崎の大工さんだったので、
見よう見まねでできた手すりは、
本来の円筒形ではなく、
板状の不思議な形になったとか…
オランダ商館の商館長次席(ヘトル)の住居、
そこかしこに和洋折衷の設えがみられます。


長期計画では、四方に水面を確保して、
扇形の島を完全に復元しようと
ガンバっておられます。

西洋と日本の文化・学術・貿易品が
最初に出入りした象徴的な建物「水門」
2つの通り口があって南側は輸入用、
北側は輸出用に使われていました。
門の前には「さるく」くん??。
「さるく」とは、
まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁。
まち歩き観光「長崎さるく」って、
ガイドブックが無料でもらえました。
虎次郎の駆け足長崎あるきに、
重宝しましたよん(・ω・)v

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