チャンピオンフラッグめぐり3 タカの巻

こないだのATOMの映画を観た時、
チケット発券からしばらく上映まで時間が
あったので「なんばバークス」の
「南海ホークス・
メモリアル・ギャラリー」

           のぞいて来ました。


2006年5月にも
なんば球場をたずねて!!
ということでレポしたんですけど。
あの「あぶさん」
引退したしね。

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9階エレベーターホールの一角に移され、
改めてキレイに展示されていた。
南海ホークス最後の監督 
杉浦忠の71の背中が迎えてくれた。



















なんばパークスにはナンバゆかりの人々の
手形モニュメントなるものがあって、
水島新司さんのがあった。
「球けがれなく 道けわし」
その他にも南海ゆかりのプレートが並ぶ。


岡本伊三(おかもと・いさみ)
セカンドで通算は1018安打。
1953年には首位打者になる。
どちらかというと、
現役を知らない虎次郎は、
近鉄の監督の岡本さん





ちなみに娘さんは
あの世界的なテニスプレイヤーの 岡本久美子 さんだ。


門田博光(かどた・ひろみつ)
当時では珍しかった
40歳を超えて活躍した選手。
「不惑の大砲」の異名を持つ。







1979年2月のキャンプで右足アキレス腱断裂。
    翌1980年に復活した。
DHというパの制度で
「ホームランなら足に負担がかからない。
 全打席ホームランを狙う。」
のコトバも
南海では加藤英司、オリックスでは石嶺和彦がDH。
守備範囲が狭い分を打って帳消しにできる選手だった。
「不惑」というのは、
『論語・為政』にある孔子のことば「四十而不惑」のこと。
四十にして惑わず(しじゅうにしてまどわず)

虎次郎まだまだ四十こえても
人を惑わしてばかりか(爆)



広瀬叔功(ひろせ・よしのり)
広島県立大竹高校のピッチャー
南海ホークスにはテスト生
  として入団した
センターとして活躍
通算2157安打





野村監督の解任に伴い現役引退後監督昇格。
1978年~1980の3シーズン務めるが、
いわゆる鶴岡監督カラーの肩と袖の太ラインを
ユニフォームに復活させた。


実は「南海ホークス・メモリアル・ギャラリー」には、
野村克也氏の活躍というより
「野村克也」の文字そのものが
     一切消されている。




















奮闘〜有終期(1970〜1988)には、
「昭和44年(1969)鶴岡監督辞任後、
 飯田徳治コーチが監督に就任するも、
 最下位に終わり1年で辞任。
 2シーズン制が導入された
 昭和48年(1973)には
 リーグ優勝をはたす。
 昭和53年以降、4監督が歴任
 (昭和53年・広瀬叔功、
 56年・D・ブレイザー、58年穴吹義雄、
 そして61年(1986)杉浦忠が
 監督就任)するも62年の4位を最高に
 5位5回、最下位5回と
 成績の低迷を止められず、
 球団創立の50周年にあたる
 昭和63年(1988)ダイエーに譲渡され、
 南海ホークスとしての幕を閉じる。
とある。






































1964年は阪神タイガースと覇権を争った
いわゆる「御堂筋シリーズ」
東京オリンピックだった年でシリーズ史上初のナイトゲーム。
五輪まっただなかで
日本人に一番印象に残っていないシリーズといわれる。
なぜかギャラリーにはレプリカのような
小さいフラッグが飾られていた。


実は阪神のリーグ優勝はシリーズ前日だったらしく、
おまけに中日とのダブルヘッダーだったらしい、
甲子園では徹夜でシリーズの飾り付けに追われたんだという。

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