天満寺町コンクリ寺めぐり⑤ 善導寺〜重源ゆかりの念仏道場


天満寺町通りに戻ります…
悟真山別格 善導寺さん。
発端は奈良東大寺の俊乗房 重源上人
1181年(養和元)摂津渡辺道場
発端とすると伝えてれています。

重源上人坐像(奈良・東大寺)

俊乗坊 重源上人とは…
平重衡によって焼失した
東大寺の復興をめざし、
大勧進職を勤めた僧。

上人は畿内・西国の7か所に
別所を造営するなどして、
念仏信仰の基盤としたのです。

摂津には渡辺津に別所が設けられていて、
一間四面の浄土堂には皆金色丈六の
阿弥陀仏像・観音勢至像…
来迎阿弥陀如来像への信仰は
かなりの賑わいを見せていたのでしょう。
重源が入宋で招来したという"善導大師"の
御真影が祀られていたともあり、
伝える。そのお堂を「放光殿」と称し、
善導寺のはじまりとされている所以。

渡辺津は現在大川にかかる天満橋から
天神橋の間にあったとされるのですが、
"渡辺道場"の所在はいまだ不明とか…
その後 傳譽慶公上人が念仏道場として
開山されたのが江戸期に入っての、
1592年(文禄元)のことだそうです。
1855年(安政2)に本堂・庫裏・
三重塔・鐘楼堂・観音堂といった
伽藍を整えられました。

ただ大阪大空襲で全堂宇を焼失
大坂三十三ヵ所観音巡りの札所、
長谷観音立像も焼失したのだという。

現在の本尊 阿弥陀如来立像は、
1961年(文久元)の造立で、
第17 世 鏡譽圓霊和尚が夢告に因り、
本尊の前立として彫刻したもので、
もとの本尊は空襲で焼失しています。

大坂三十三ヵ所観音巡りは、
29ヶ所の寺院、4ヶ所の神社で
構成された観音霊場でして、
近松門左衛門の『曽根崎心中』
卯月の紅葉」に登場する観音めぐり。
第一番札所が太融寺さん…

明治時代の神仏分離令と、
太平洋戦争の戦火を経て、
霊場は廃れてしまった
のですが…
札所を示す石碑が各札所に設置され、
復活を願う市民の会が毎年11月3日に、
観音めぐり巡拝が行われつつあります。

『曽根崎心中』の「観音廻り」に脱線…
お初の大阪三十三所観音巡りは、
あまり上演されることは少ないのです。
文楽というものは実は長〜〜い前置き、
浄瑠璃を愉しめる人は多くはないのです。

ただこの段のもう一つの問題…
第二段「生玉の場」の冒頭、
お初は生國魂神社で徳兵衛と会い、
豊後のお大尽と観音巡りをした後…
地理的に大分無理な話なのです。
大融寺を皮切りに最南端の四天王寺
観音巡りを終えて生玉社に行くと、
次の舞台となる天満屋から遠ざかる。
観音巡りは徒歩で丸一日かかる(T_T)
まぁ〜お芝居ですから。

江戸時代の大坂市中では、
三度の大火があったとされます。
1724年(享保9)の「妙知焼け」、
1837年(天保8)の「大塩焼け」、
そして1863年(文久3)の「新町焼け」。
特に大塩平八郎の乱によるものは、
善導寺も被害を被ったようでして、
謂れを記す善導寺の日記が焼失…
ちなみにもとの御本尊は、
大阪大空襲で焼失しています。
1955年 客殿、1960年 庫裏、
1977年に本堂復興がなされました。

御本尊の阿弥陀如来立像は、
1861年(文久元年)に当時第17世、
鏡譽圓霊和尚が夢告に因り、
父母精霊菩提を願って
本尊の前立として刻したもの。

ソメイヨシノは樹齢50年のもあり、
道行く人々の目を和ませるとか。
大阪新四十八願所 第8番
  「他心智通の願」
和歌は
「われのみか 人の心も もろともに
 うつすかがみや のりの月かげ」


石柱に後水尾院皇子栄宮…、
知恩院に入室の尊光法親王のこと。
尊光法親王が門跡第二世として
知恩院に入られたのですが、
戒師を勤めた
知恩院の勝誉旧応上人
善導寺の實誉文貞上人
関東檀林で同行学友であった縁あり、
文貞上人はたびたび知恩院の
旧応上人の座下に至ることがあり、
尊光法親王の得度の折、
法式の指南役を仰せつかったとか


親王は1680年(延宝8)36歳の薨御…
「私の滅後、長く位牌を祀るように」
との御遺言により以後 善導寺は、
永代好身寺院として許状を受け、
一般寺院では珍しく幕や
本堂瓦、提灯台、仏具などに
菊の御紋を付すことを
許されているのです。

悟真山 善導寺[ぜんどうじ]
創建:1592年 傳譽慶公上人
宗派:浄土宗
本尊:一光三尊仏
  阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩
札所:大阪新四十八願所 第8番
   大坂三十三観音霊場 第8番
住所:大阪市北区与力町2-5

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