文楽ゆかりの地をたどる① 「心中天網島」紙屋おさん


「心中天網島」
〈天満紙屋内の段〉
着物を質に入れようとするおさん

"お初徳兵衛"  "梅川忠兵衛"
 "お染久松" ※
日本の古典の心中ものの演目は、
主役男女二人が作品の通称となり、
今日まで語り継がれています。
近松門左衛門の「心中天網島」も、
紙屋治兵衛と遊女小春の哀しい
心中物語であり「小春治兵衛」、
それは紛れも無い事実ですが…

国立文楽劇場 1989年11月公演で
芝居絵の紙屋治兵衛と女房おさん
文楽では『心中天の網島』と共に、
天網島時雨炬燵』が演じられます。
天満紙屋内の段〉でのシーン、
治兵衛が小春と別れた数日後、
小春が客に身請けされるという噂。
噂を聞いた治兵衛は、
客とは恋敵 太兵衛なんだと…、
炬燵で涙を流していました。


《紙屋治兵衛》
 豊国
 1849年
 東京都立中央図書館 所蔵

前段の〈北新地河庄の段〉
遊女の小春と紙屋治兵衛は、
心中の約束をするまでの
深い仲になっていました。
そんなある日、武士の客から、
治兵衛と別れるなら
手助けをしようと持ちかけられ…

《紀の国屋小春》
 豊国
 1849年

立ち聞きしていた治兵衛は、
裏切られた怒りから、
窓越しに刺そうとします。
浮世絵は二枚続きなのです。

《紙屋治兵衛 中村宗十郎》
 豊原国周
1880年

しかし、武士に取り押さえられ、
店先の格子に腕を
括り付けられてしまいます。
河庄」とあるのは、
河内屋庄兵衛のことか…

"茶屋 河庄"は史料にみられず
特定できないのですが、
北新地に"河庄跡碑"が立ちます。
1975年に個人が建てたものとか…

大和屋の段〉の大和屋は、
詳細な場所は不明であるものの…
「蜆流るゝ水も行き交ふ人も
 音せぬ丑三つの空
 十五夜の月冴えて」

史跡 蜆川跡の碑は北新地の
入り口にビルの尖りに立ちます。

北新地のど真ん中にも蜆橋のレリーフ、
そばにある"曽根崎川跡"には、
「大江橋上流部で北西へ
 堂島川から分流し、
 堂島一丁目と曽根崎新地一丁目の
 境界道路北側をほぼ西方回へ
 弧を描きながら流れ、
 船津橋付近で再び堂島川に
 合流する川があった。
 これが曽根崎川で、蜆川、梅田川
 下流では福島川ともいった。」

こちら京阪電車 大江橋駅にある
"大坂中之島界隈蔵屋敷跡"の案内板、
天保期(1830-1843)のころを示す。
蜆川には難波小橋、蜆橋、曽根崎橋、
桜橋、緑橋、梅田橋
など…
"道行名残りの橋づくし"は、
1909年北の大火 焼跡の瓦礫の
捨場となって上流部が埋めたて…
1924年にはすべて姿を消すのです。

"紙屋おさん"のことを綴ります。
近松が「心中天網島」テーマとしたは、
おさんと小春の「女同士の義理」

義理という言葉は本来の意味は、
「人間として、守るべき正しい道や、
 果たすべき務め」
なのです。
「切られぬところを思い切り、
 夫の命を頼む、頼む」と
 おさんは小春に手紙を出しました。
「身にも命にも替えぬ大事の殿なれど、
 引かれぬ義理合い、思い切る
」と小春。

紙治をさんの墓とある墓所碑、
安養寺は西成区岸里にある
1689年(元禄2)創建の尼寺です。
そもそも"おさん"が実在したかは
定かではありません。
一説によると"小春治兵衛"のあと、
二人の一周忌をすませてから
二人の子どもを実家に預け、
尼になって生涯 女性の悩みを
聞いたともいわれています。

おさん治兵衛ではなく"紙治をさん"。

〽一昨年の十月中の亥の子に
 炬燵明けた祝儀とて、
 まあこゝで枕並べて此の方、
 女房の懐には鬼が住むか蛇が住むか、
 二年といふもの巣守にして、
 母様伯父様のお蔭で、
 むつまじい女夫らしい
 寝物語もせう物と、
 楽しむ間もなく
 ほんにむごいつれない

女性として放置されていたことに
堪え切れなくなり…
この時代の女性は"よくできた"話…
そう繰るとお叱りを受けるでしょう。


心中天の網島」の人物相関図…
木ノ下歌舞伎さんから拝借m(_ _)m
紙屋治兵衛と"おさん" いとこ同士、
"おさん" に肝っ玉を感じさせるのは、
ワケがありそうにも思えます。

治兵衛を愛する2人の女性が、
互いに誠意を尽くしたにも関わらず…
近松は「女同士の義理」を活かし、
特徴的な心中を描いています。

小春はおさんへの義理を思い、
2人別々の場所で死ぬことを希望
これを承知した治兵衛は、
小春を刺した後、
離れた場所で果てるのでした。

《中村宗十郎一世一代
 名残リ狂言 心中天の網島》
「紙屋治兵衛 中村宗十郎」
 歌川芳滝
1876年

「心中」とは…
愛し合う男女がともに命を絶つこと。

実はもともとの言葉の意味は、
相手への誠意を示すこと」。
『曾根崎心中』の熱狂は、
世間に心中事件を増やすほど…
その後も〈心中もの〉が続々と。
享保年間に幕府はついに取り締まり、
そして事件の類を絵草紙や歌舞伎狂言に
取り上げることを禁じる……。
法令には"心中"ではなく"相対死"
という言葉が使われました。
紙屋おさんに魅せられた文豪…
太宰治の短編はズバリ『おさん』
谷崎潤一郎『蓼喰う虫』など。
ところで "心中"の2文字をあわせると
"忠"になるから"良しとせず"
その後〈心中もの〉は改作され、
ハッピーエンドに変えられました

安養寺の今日のことば…
「いま幸せと思ったら
 すぐ幸せになれます」
感慨深い。

※"お初徳兵衛"「曽根崎心中
 "梅川忠兵衛"「冥途の飛脚
 そして"お染久松"「心中鬼門角」のこと

「安養寺」大阪市西成区岸里東1丁目
 阪堺線聖天坂もしくは
 大阪メトロ天下茶屋

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