天満寺町コンクリ寺めぐり⑭ 龍海寺と大村益次郎
龍海寺というお寺は、
大阪の歴史をよく知る人ならば、
知ればしるほど寺内を訪れたいと…
門前には"緒方洪庵墓所"の一つしか
墓所碑は建てられていませんが、
大阪の偉人が多く葬られています。
幕末史のことがお好きなれば、
きっとこの肖像画を一度は
見られたことがあるでしょう。
長州に迫った幕府軍を蹴散らし、
"官軍"になってからは上野の山に
立てこもった彰義隊を鎮圧。
近代軍隊の創設に邁進した
"軍事の天才" 大村益次郎その人。
幕末史のことがお好きなれば、
きっとこの肖像画を一度は
見られたことがあるでしょう。
長州に迫った幕府軍を蹴散らし、
"官軍"になってからは上野の山に
立てこもった彰義隊を鎮圧。
近代軍隊の創設に邁進した
"軍事の天才" 大村益次郎その人。
《靖國神社大村大輔之肖像》1893年
楊斎 延一 画
益次郎は1825年(文政8)現在の
山口市の鋳銭司という村で
医業を営む家に生まれた人です。
楊斎 延一 画
益次郎は1825年(文政8)現在の
山口市の鋳銭司という村で
医業を営む家に生まれた人です。
東京での没後13年の祭典の際、
銅像建立の話が生まれるのですが…
銅像建立の話が生まれるのですが…
肖像画の作者は、
紙幣や郵便切手などの原版製作、
イタリア人銅版画家の
エドアルド・キヨッソーネという人。
紙幣や郵便切手などの原版製作、
イタリア人銅版画家の
エドアルド・キヨッソーネという人。
西郷隆盛…こちらも肖像画、
キヨッソーネさんの手によるもの。
除幕式のとき…
隆盛の妻のイト夫人が一言…
「こげな人じゃなか」
板垣退助も「こんな顔じゃない」、
さすがに勝海舟は「体調が悪い」
離席した人続出だったそうです。
西郷隆盛の写真は1枚もなく、
撮影の記録もありません。
大久保利通が渡欧での写真を
送ってきたとき、
「見苦しいものを送ってくるな。
情けない」と…
西郷さんの写真嫌いは有名で、
明治政府の要人の多くは、
暗殺を恐れて写真を避けたとも。
撮影の記録もありません。
大久保利通が渡欧での写真を
送ってきたとき、
「見苦しいものを送ってくるな。
情けない」と…
西郷さんの写真嫌いは有名で、
明治政府の要人の多くは、
暗殺を恐れて写真を避けたとも。
こちらキヨッソーネ彫刻の
《大久保利通像》。
国立印刷局に遺るもので、
銅版画の彫刻三技法が駆使、
彫刻刀で直接、溝を彫る
"エングレーヴィング"、
薬剤で線を腐食して溝とする
"エッチング"、
そしてあらかじめ全面に溝を
彫っておいてから不要な部分を
削るという"メゾチント"とか…
ちなみに写真撮影の経験のあった、
大久保利通と伊藤博文は、
暗殺で人生の幕を閉じています。
彫刻刀で直接、溝を彫る
"エングレーヴィング"、
薬剤で線を腐食して溝とする
"エッチング"、
そしてあらかじめ全面に溝を
彫っておいてから不要な部分を
削るという"メゾチント"とか…
ちなみに写真撮影の経験のあった、
大久保利通と伊藤博文は、
暗殺で人生の幕を閉じています。
大村益次郎の靖国神社の銅像…
西洋諸国を視察した人々から、
碑に代わって日本にも銅像を、
という声が出始めたころ…
でも益次郎には写真がありません。
面識があった人が絵を描き、
それを元に肖像画を制作。
銅像の設計者は日本初の
官立美術学校の首席卒業、
大熊氏廣に決まったのは
1885年(明治18)のこと。
原型の石こう像の完成が1891年、
原料不足や技術的問題もあり、
除幕式は度々延期でようやく、
1893年2月5日のこと足掛け12年。
短袴と筒袖羽織姿、
左手に双眼鏡を持ち、
江戸城の富士見櫓から、
上野に籠もる彰義隊を凝視する…
しかしながらあまりにも高い位置、
縦に伸びた広いおでこの肖像画…
顔がよく見えないって残念サン。
前置きが大変ながくなりました。
大村益次郎の墓は山口市鋳銭司に
あるのですが…
1869年9 月に襲撃を受けて重傷、
その後11月大阪の病院で亡くなります。
遺骸は船で郷里に運ばれ、
自宅近くの埋葬されたのだそうです。
墓の後方には1878年建立の神道碑、
そのには"大村神社"があるそうです。
実は洪庵先生の傍らにあるのは、
"大村益次郎足塚"なのです。
襲撃を受けた足の傷から敗血症に…
「切断した足を洪庵先生の
墓傍に埋めて欲しい」と遺言。
「この足塚は、政治的狂人が
墓を暴くかもしれないという危惧から、
ずっと内密にされてきた。
昭和12年に記録が発見されるまで、
寺の住職さえ知らなかった。
昭和15年ようやく碑が
たてられるにいたったというのは、
見方によっては、
思想というこの有毒なものが
無毒になるには
それだけの歳月を必要とした、
ということもいえるかもしれない。」
軍神・大村益次郎を題材に著した
たてられるにいたったというのは、
見方によっては、
思想というこの有毒なものが
無毒になるには
それだけの歳月を必要とした、
ということもいえるかもしれない。」
軍神・大村益次郎を題材に著した
司馬遼太郎の『花神』より。