天満寺町コンクリ寺めぐり⑥ 善導寺そして明暗寺〜近藤宗悦のこと


善導寺には門前に墓所の石碑が二つ、
近藤宗悦と山片蟠桃。
近藤宗悦は尺八の新流派である
宗悦流を興した人として知られるとか…

近藤宗悦は、幕末の九州長崎の出身で、
もとは中国笛を良く吹いたことから
チャルメラ宗悦」と呼ばれていたとか。
その後京都へ上り、
京都・東福寺塔頭 明暗寺で尺八を学び、
盛んになってきていた三曲と結び
宗悦流という一流派を興したのです。
隆盛振りから"尺八長者"と呼ばれたとか。

多くの名演奏家やその後の
尺八発展に寄与したが、
三曲の曲相が廃れてしまったこと。
三曲や俗曲に力を入れたため
本曲がほとんど吹奏されず、
残念ながら宗悦流はあまり
伝わっていないそうです…


明治期の宗悦を知る人の言によれば、
「公会で八面の箏の中に尺八一管で
 八段を吹いた所、
 その席では糸に消されて
 尺八の音が聞えなかったが、
 室外に出ると尺八の音のみ
 もっとも超越して聞えた
」とか。

秘蔵の吹奏管は、
出来は天然のままに委ねたもの、
その竹材の見事なこと…
類をみなかったとか。

宗悦のその後…
幕末の動乱期に至って、
明暗寺33世首座 玄堂観妙とともに
尊皇攘夷思想に傾倒、
勤皇党天誅組などと京都を繋ぐ
連絡係として暗躍したとか。
「贈従三位 吉井義之墓所」の石標、
尊王攘夷派志士ゆかりの明暗寺。
吉井義之は奇兵隊に参加し、
池田屋事変では無事に逃れたものの、
禁門の変で負傷したという。
戊辰戦争では北越方面に従軍。
1892年没 享年67歳。

"吹禅"の碑石…
坐禅により禅定に入るのも一つ、
尺八を奏して禅定に至るのも一つ。
サンスクリット語のディヤーナが
"禅那"即ち"禅"で、定とは"静慮"の意。
すなわち"禅定"とは、
「迷いを断ち、感情を鎮め、
 心を明らかにして、
 真実な理法を体得することをいう」

近藤宗悦は大阪伊丹にて46歳で没。
善導寺が墓所となりましたが、
死因は不明…亡くなったは1867年
といえば坂本竜馬暗殺の年でもあります。

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