天満寺町コンクリ寺めぐり⑧ 天徳寺より梅花社〜篠崎小竹のこと


黒塀に囲まれ庫裏と思われる建物も、
墨色のコンクリ寺 仙境山 天徳寺

東向きの道路を北へ足を進めると、
石塔のバックに建物の壁に、
庭園を表した絵が見えます。

門前に墓所の石碑はありませんが、
毛利元就の八男・毛利元康
ここに葬られているそうです。
毛利元康の事績はほとんど
消されているその訳は、
家康からは恐れられていたから…

毛利元就の息子であり、
毛利輝元の叔父という
一門の中でも実力者でした。
関ヶ原の戦いに加わりますが、
大坂の毛利宿陣で1601年に病死。


天徳寺の開創は不詳とされていますが、
現在の広島県福山市神辺町に開創され、
その後現在地に移ったと伝わります。
毛利元康は神辺城主でありましたので、
天徳寺の開創に寄与したのでしょう。
大坂の毛利宿陣でもあったとか…
天徳寺では元康を開基とされています。

門前に立つ墓所の石碑は、
篠崎小竹墓所」。
儒者・書家であった篠崎小竹は、
小竹は9歳で篠崎三島が創設した
私塾"梅花社"に入門後、
三島に後継なく養子となられました。
一時期は頼山陽に感化されたこともあり、
江戸に出奔して朱子学者に転向しますが、
その後 三島と和解して"梅花社"を
継承したと伝わっています。


温厚で社交好きな性格なことも相まって、
"梅花社"は"懐徳堂"とならんで、
大坂で最も有名な塾となり、
門下生は1500名を越えたそうです。
その一方で学者に似合わず蓄財が巧く
鴻池家に出入りして主人・善右衛門
論語の講釈をするなど、
学者中の鴻池」とも呼ばれました。

"梅花社屋跡"は中央区今橋の
淀屋橋竹村ビル」の壁面に
掲げられています。
小竹の代に至り大いに繁盛し、
幕末大坂での広壮な塾でした。

銀色に光るタイルに黒い丸石…

インテリジェンスなビルのデザイン、
行き交う人たちにはオブジェにしか
みられていないのだと思います。

自販機の後ろに隠れている解説文、
大阪府は"梅花社屋址"という石碑を、
1928年3月建立しています。
石碑本体は篠崎三島の出身地、
愛媛県内子町に移転されています。
篠崎三島の研究者の後藤茂七さんが、
大阪府教育委員会に願い出許可され、
愛媛県町立内子中学校の校庭に
移設されているそうです。

篠崎小竹の娘婿にあたるのが
江戸後期の儒学者の後藤松陰という人、
墓は篠崎家とともに天徳寺にあり、
後藤茂七さんは縁の方かも知れません。

1988年建設の「淀屋橋竹村ビル3」、
施工 竹中工務店、高松伸氏 設計
デザイナーズオフィスビルとして
紹介されていますが…
今は入居者がいないみたいでした(T_T)

"麻雀屋今橋クラブ"が増築されたとき、
"梅花社屋址"の碑は倉庫に置かれ、
ホコリまみれになっていたとか。
レリーフはなんとかどこかで、
遺されるといいのですが…

小竹の父 篠崎三島
1776年(安永5)に開いたとされる
もうひとつの"梅花社跡"。
この三島が開いた梅花社は、
現在の土佐堀1丁目にありました。
篠崎三島は紙問屋を営んでいましたが、
詩文や書芸に優れ、天文学や占いにも
通じていたそうです。
四十歳で隠居して私塾を設け、
庭に植えた"緑萼梅(りょくがくばい)"が
梅花社の由来として伝わっています。
跡地はガソリンスタンドになっていて、
その壁に解説板がありました。

篠崎小竹も詩と書をよくし、
京坂の多くの文人と交流を持ち、
頼山陽は大坂の篠崎三島を頼り
春水が大坂で開いていた"青山社"と、
"梅花社"は近く交流があったようです。
頼山陽と篠崎小竹は同じ
1781年生まれ
ということもあり、
若いころから友情が築かれていたとか。

墨色のコンクリ寺 天徳寺に戻ります。
境内にはここかしこに
モダンな佇まいがみられました。

鎮守の白鬚天満大自在天神

坐禅会とか"動く禅"と称して、
太極拳と八段錦とかも
催されいるそうです。
八段錦とは気功のこととか…

水琴窟もオシャレに

自転車置場のスペースの壁にも
禅風景が描かれていました。






仙境山 天徳寺[てんとくじ]
創建:1573年 龍室秀曇和尚 毛利元康
宗派:曹洞宗
本尊:如意輪観音
住所:大阪市北区与力町2-1

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