天満寺町コンクリ寺めぐり① ~日蓮宗成正寺 大塩平八郎墓所


大阪メトロ南森町駅のほど近いところ、
大塩の乱に準じた人びとの碑
日蓮宗 身延山久遠寺末寺 成正寺
大塩平八郎は、大阪の奉行所で働く、
「与力(よりき)」という
江戸幕府の役人でした。
そもそも"大塩平八郎の乱"を
なぜ起こしたのか?
誰に対する行動だったのか…

江戸幕府の役人は
商人から賄賂を受け取り、
たがいの癒着が深まるなど、
不正腐敗が進んでいました。
大塩にもたびたび
賄賂がおくられました。
しかし決して賄賂を
受け取ることはなく、
不正をにくむ正義漢だったとか…

本堂前に墓所と乱の碑石…
1604年(慶長9年)創建、
開創は増長院日秀上人
増長院日秀上人は、
道が縁で豊臣秀吉の知遇を受け、
現在地に寺領を賜ったそうです。
1592年(文禄元)年より出征する
朝鮮出兵の戦勝祈願として、
秀吉の持佛である妙見大菩薩像、
今も堂内に祀られているとか。

1837年(天保8年)2月19日、
大塩平八郎は仲間の
与力や弟子たちとともに、
不正を行う役人や商人を
討つための戦いを起こします。
幕府の不正をにくみ、
庶民を救うために、
大塩はあえて激しい行動に
うって出たのです。

大塩の乱はたった一日、
幕府側の軍勢により
その日のうちに鎮圧されます。

ただ乱を起こす二日前、
幕府老中あてに密書を送っています。
下級役人から老中までもが関わる
不正を訴えるものでした。
明るみとなれば関与した人物は、
一掃され、少しでも正しい政治が
行われるようになるのではないか。
密書は内部告発であり、
腐敗を糺す最後の希望でした。


しかし密書は老中に届くことはなく、
大塩の望みは絶たれます。
逃亡から40日…
最後は持っていた爆薬で壮烈死、
ただ大塩の行動は歴史に刻まれます。
打ちこわしや一揆が各地で勃発
時代が変わる分岐点だったかと。

"讀誦山"というのが山号です。
讀誦「どくじゅ」と呼べば、
声を出して経文を読むこと
經文の讀誦に抹香くさくなりて
 娘らしき匂ひは遠かるべしと
 思ひしに、…」
樋口一葉の『暁月夜』の一節です。

成正寺は未生流二代 上田廣甫
菩提所でもあります。
初代 未生斎一甫(山村山碩)に
見出された生来の花の才により、
二代家元を継いで未生斎に…
嵯峨御所へ仕官し花務職となり、
法眼の称号を許され、
未生流を全国に広めて
確固としたものにしました。

1861年(文久元)7月、
大阪の地でなくなりました。
未生流の家元をはじめ、
ゆかりの方々により
護持されているのです。

最後に…
大塩平八郎の乱の年の覚え方、
いやみな1837役人やっつけろ

讀誦山 成正寺
[どくじゅざん じょうしょうじ]
創建:1604年 増長院日秀上人
宗派:日蓮宗 身延山久遠寺末寺
本尊:十界曼荼羅
住所:大阪市北区末広町

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