太閤秀吉を辿る vol.7 天下茶屋の仇討ち


室町末期の茶人・武野紹鴎
ここに湧く水の良さに着目…
茶室を建て森を切り開いて、
風月を友に静かに暮らしたので
"紹鴎の森"とも呼ばれた地。

鬱蒼とした森の鄙びた地は、
応永年間(1394~1428)に
京都・北野天満宮の分霊が奉祀…
天下茶屋天満宮とも紹鴎森天満宮とも。

1609年(慶長14)…宇喜多秀家
旧臣であった林源次郎が、
父の仇 当麻三郎右衛門を討った
"天下茶屋の仇討ち"にちなんだ供養塔、
道路拡張で境内に遷されたもの。

《殿下茶屋仇討 拾》国芳画

住吉浜の高燈籠と岸姫松…
この事件は歌舞伎に取り上げられ
敵討天下茶屋聚』という演目で
1781年(天明元)大坂で初演、
1816年(文化13) 江戸でも初演…
供養塔の建立は文化12年あたりなので、
江戸初演の宣伝と観光需要を
当て込んだとも言えますね(汗)

左上には、
源治郎 幸右衛門と計て 
 敵三郎右衛門を 殿下茶屋村に討
」と。

《殿下茶屋仇討 二》国芳画

仇討ちの主役・源次郎の父は、
名を玄蕃といい宇喜多秀家の重臣、
1600年(慶長5)9月2日に
家康に味方する家老・長船紀伊守
腹心・当麻三郎右衛門に殺害された、
ということ…
ただ紀伊守綱直は2年前に病死、
それが原因で宇喜多家を
二分する内紛が発生しています。


《殿下茶屋仇討 三》国芳画

そもそも9月2日という日
すでに関ヶ原合戦の前哨戦が始まり、
宇喜多家は総動員で伊勢・美濃を移動、
重臣の玄蕃が呑気に"だまし討ち"?
まぁ〜お芝居ですから

《殿下茶屋仇討 七》国芳画

裏切りの安達元右衛門を見つけ出し、
まさに討とうとしている場面。

《殿下茶屋仇討 九》国芳画

9年後に見事仇を討つという結末…
秀頼・淀殿母子が住吉大社に参詣の折、
三郎右衛門が大野治長の供として
変名して従っていたものを、
治長や片桐且元の協力も得て
大願成就するという話に。
寺社の再建・復興を盛んにやり出した
秀頼母子も絡めてくるなど、
"芝居仕立て"であり良く出来た話です。
《殿下茶屋》豊国 1848年ごろ

弟の源次郎が不在の際に兄の伊織が
敵である当麻三郎右衛門に襲われる場面。
一太刀浴びせることができたものの…
返り討ちにあってしまう。

《安達元右衛門 早瀬伊織》
 歌川国芳
 1854年

この芝居に人気が出たのは、
端敵の安達元右衛門という役が、
1835年(天保6)江戸での上演、
四代目 友右衛門がこの役を演じて、
「元右衛門の友右衛門か、
 友右衛門の元右衛門か」

大当たりをとったのです。
端敵(はがたき)に対して
立敵(たちがたき)というのは、
芝居のなかでそれなりに
敬意を払われる役。
敵討ちといえば『忠臣蔵』の定九郎
これも初代 仲蔵の当たり役。
芝居は生き物ですから、
こういうことがあるのです。

殿下茶屋誉仇討
 1799年(寛政11) 十返舎一九

供養塔の解説板でも、
こう締めくくられています
「…天神森天満宮の南五十米の
 出口橋にて討ち取り、
 父と兄の仇討ちの本懐を遂げた。」

こちら1916年の芝居番付より、
"四天王寺、東寺裏、天神森、敵討"の
4幕加えて、"人形屋、京屋"の場面も
上演されていたことがわかります。
「天下茶屋」の名は諸国紹介の代名詞
でもあったようです。


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