天満寺町コンクリ寺めぐり⑨ 栗東寺 〜観音めぐり第九番札所


寶樹山 栗東寺 HPには、
佛々祖々ぶつぶつそそ…
先師せんしにならい、
正しい仏法を護り伝える。

とありました。

寺門にはいつも白いオシャレな
コンパクトカーが停まっているそうな。

開創とされる1554年(天文23)、
京都近衛家の荘園があった
大坂豊津において、
当時は臨済宗大徳寺派だったとか。

1597年(慶長2年)になってこの地、 
東寺町へ遷されてきたのですが、
玉龍山 福昌寺の東屋清春大和尚を
開山として曹洞宗の寺院になりました。
福昌寺は薩摩藩主島津氏の菩提寺
島津氏が大坂へ参内するときの
菩提寺であったそうです。


大坂三十三ヶ所観音巡り 第九番札所
西国9番 南円堂
御詠歌が刻まれていています。
「春の日は 南円堂に かがやきて
 三笠の山に 晴るるうす雲」


曽根崎心中』は近松の世話浄瑠璃
第1作目であったそうでして、
江戸時代の世話物というのは
時代物のあとの第二部として
上演されるのが通例でした。

1703年(元禄16)の竹本座初演でも、
先立って上演されたのは『日本王代記』。
時代物から世話物への移行…、
気分を変えるための"間狂言"、
"お初観音廻り"には意味があり、
大坂の町人に流行していた
習俗を取り入れたのでしょう。


三十三番の観音札所を巡礼すると、
その罪は消えてしまうとか…

天満の大融寺を皮切りにして、
「観音さまは衆生を救おうと、
 三十三のお姿に身を変えて、
 人々を色で導き、情けで教え、
 恋を悟りの橋にしてあの世へ
 掛けて渡してくだされる、
 その誓いは言いようもなく…」

歌舞伎でも文楽でもほとんど
上演されることのない観音廻り
芝居ではなく"景事"でもなく、
独立した"神事"の趣きとみるのがよい。

近松はお初のことを
「色で導き、情けで教え、
 恋を菩提の橋となし、
 渡して救う観世音」
と…

栗東寺に戻ります…
左手の戸が開いていましたが、
墓所かも知れません。

石段があり木の柵まで
上がらせてもらいました。

おそらくこの先に
本殿があるのでしょう。
1941年出版の梅原忠治郎さんの
『大阪三十三所観音巡り』によると、
「第九番 寶樹山栗東寺(北區東寺町)
 開祖東屋清春大和尚と號す。
 本尊釈迦を安置せり。
 禅宗 曹洞派 薩摩國 鹿児島
 福昌寺末院なり。
 觀音堂 本尊十一面觀世音は、
 恵心僧都彫刻の靈像なり
。」

1945年の大阪大空襲で伽藍が全焼
戦後の道路拡張で境内地が縮小とか…
鉄筋コンクリート造の本堂は、
1970年のことで
「二度と焼失させまい」
当時の住職の決意のあらわれです。

禅宗寺院というのはシンプルで、
スタイリッシュなコンクリ寺が
多いように思えます。

本殿階段前には収納名人
梵鐘がありました…

狛犬の方向が外向けなのは、
おそらく本堂よりも左右扉に
睨みをきかせているのかも
知れませんね。

ちなみに"阿"には物事の始まり
"吽"には物事の終わりという意味。
阿形は口を開けて吽形は口を閉じる…
左右の配置は絶対的なものではなく、
時代によって違いがあるようです。


栗東寺墓地にはいくつかの墓所あり…
葛 子琴(1739-1784)
 江戸時代中期の漢詩人・篆刻家。
 天賦の才を持った詩人と評された人。

鳥居 忠威(1809-1826)
 江戸時代の大名で、
 下野壬生藩の第5代藩主。
 墓碑は戦前あったが現存せず。

池上 雪枝(1826-1891)
 日本ではじめての
 感化院である『修徳院』を開いた人。
 日本画家・村上華岳の祖母。

「紋に揚羽の超泉寺。
 さて善導寺 栗東寺
 天満の札所残りなく。…」※

「拝み納まるさしも草 
 くきの蓮葉な世に交じり。
 三十三に御身を変へ 色で 道引き
 情(なさけ)で教へ。
 恋を菩提の橋となし。
 渡して救ふ観世音 誓ひは。
 妙(たへ)に ありがたし。
」※

※曾根崎心中 付り観音廻り
 新潮日本古典集成 新装版
 『近松門左衛門集
  信多純一校注 2019年 新潮社

寶樹山 栗東寺
[じゅほうざん りっとうじ]
創建:1616年 廣演院日容(三田浄久)
宗派:曹洞宗 大本山永平寺御直末
本尊:釈迦如来 
札所:大坂三十三ヶ所観音巡り
霊場御本尊:十一面観音
住所:大阪市北区与力町1-7

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