太閤秀吉を辿る vol.8 子安石と淀君


"紹鴎森天満宮"とありますが、
古くは平安前期の901年(昌泰4)、
菅原道真が筑紫に左遷の際、
住吉明神に参詣で休息地とした…
のちに祠が祀られたことに始まるとか。

本殿は1702(元禄15)年に
造営されたものとされます。

大阪市の保存樹林の指定を受けた
クスノキは樹齢600年以上とか。

本殿右手の注連縄の付く木の傍らに、
小さな祠があります。
子安石」で淀君が懐妊したとき、
堺の政所に往来の秀吉も立ち寄り、
祈願をしたと伝えられています。
子安石の回りの小石を持ち帰り、
無事出産後もとの位置に戻して
お礼参りする風習が残っています。
子安天満宮」と呼ばれる所以…

子安石の習わしは各地にあり、
福岡県粕屋郡宇美町の"宇美八幡宮"、
境内末社"湯方社"を囲むように、
玉垣を築きこぶし位の石が
山ほど積まれているそうで、
古くは『筑前國続風土記』にも
みられるそうです。

岐阜県大垣市の子安神社は、
またぎ石」で神功皇后の鞍掛石で、
石をまたぐと"子どもを授かる"とか。
南方熊楠によれば、
「諸国に小石団結して
 大岩となったのが、
 風雨に削られて
 時々多少の小石を落すを、
 石が子を産むと誤り、
 産婦安産のまじないに用いて
 子持石と名づく
」と解説する。
さざれ石が巖となる…に通ずるのか。

住吉大社も神功皇后との繋がり
住吉大社御鎮座は「卯の日」で、
住吉大社のお使い兎なのです。
この反橋の石造橋脚は、
慶長年間に淀君が秀頼の
成長祈願のために奉納したもの

住吉大社参りの道すがらに、
淀君ゆかりの"子安石"は、
所以にことかかないのです。

一方…
紹鷗が当地への隠棲を決意したのは、
1549年(天文18)ごろのことで、
戦国の戦乱の影が堺の町にも
押し寄せていたちょうどその頃。
三好長慶の江口の戦い
佐久間信盛の茶会の誘いなど、
会合衆としての紹鷗には慌しさが増す。
"紹鷗の森天満宮"と呼ばれる所以は、
紹鷗は雑事から離れたいと考え、
私財を抛ち道路の整備…
村人たちの尊敬を集めたのです。

紹鷗の最後の茶会の記録が
今井宗久茶湯日記抜書』に、
1555年(天文24)10月2日、
客は今井宗久、山上宗二の二人。
床には名物を置かず、
月を描いた定家の色紙を掛け…
紹鷗の森の茶室と伝わります。

本殿に梅鉢はみえますが…
天満宮の佇まいはあまりなく。


あとは真新しい撫で牛ぐらい

相殿には倉稲魂大神、天照皇大神、
そして猿田彦大神も!
白雪龍神・白髭龍王・
白龍大明神などの地主の社…
伊勢神宮遥拝所もあり、

こちら一の鳥居の天満宮の扁額、
あまりみかけない揮毫です。

1735年(享保20)に掲げられた
寶鏡寺徳巌理豊宮の御染筆
この文字を写したものだそうで、
元の御額は正月三が日と夏祭りに
見ることができるとか…

天下茶屋、秀吉と淀殿、
武野紹鴎、千利休、
そして天下茶屋の仇討ち
摂津名所図会』にはこのように…
「今天王寺村の内にして東生都に属す。
 勝間村および住吉北の入口、
 新家の町、拍戸の辺は西成郡、
 その町端は住吉郡なり。
 この辺郡界紛然として暁しがたし。
時代の移り変わりのなかで
継がれてきた杜がここにありました。

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