華金により、速報今になりました! リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 投稿者: 虎次郎 - 5月 27, 2006 昨日は虎獅決戦でしたが、大輔にやられてしまいました。読売も負けたようですので、泳がしておいて正解やとおもいます。金曜日は華金??でしたので、 麦芽入健康飲料の多用により、 寝覚め重し、、残存アルコール有!! リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
異界との出入り口《春日権現験記絵》 投稿者: 虎次郎 - 9月 16, 2021 『 春日権現験記絵 巻八 』の一場面 板葺きの屋根の軒先から、 腰に 小槌を差した赤鬼 が家の中を 逆さまにのぞき込む。 家の中では 男が激しく嘔吐 … ただ事ではないことは察しがつきます。 屋根の上の鬼は男に 取り憑こうとしている "疫病神" 。 《 化物昼寝鼾 》見越し入道ら 鳥居清長画 1784年 逆さまにのぞき込む異形 … 恐怖を呼ぶ一つのパターン。 現代の 都市伝説 にも、 車のフロ ントガラスの上から 逆さまの顔がすっと下りてくるとか… 妖怪の見越し入道 にも、 後ろからぐっと首を伸ばして 顔を逆さまに出してくる。 妖怪や幽霊が上の方から 逆さまに姿を現すというのは、 恐怖を感じるパターンとか。 ただ『春日権現験記絵』家人たちは、 鬼に気が付いていないと言うより、 見えていないのだと思います。 病人のいる家の外に 石が置かれ 、 祭壇を置いたあとも見えます。 小屋の中には既に命を引き取った とみられる女が横たわっていて、 《病草紙》 の形相ともみえます。 詞書にはこうある… 「弥生の朔日、河原に出たるに、 傍らなる車に、法師の紙を冠にて 博士だちをるを憎みて 祓戸の神の飾りの幣帛に 転も紛ふ 耳はさみかな」 「 耳はさみ 」とは、 林立した幣帛に紛れた紙冠、 もしくは、場にふさわしからざる 法師その人を指す とか… 呪術を終えて帰っていくのは 陰陽師 の" 声聞師 "※1か それとも僧形の" 宿曜師 "※2か。 さらに左に絵巻をたどると、 物々しい武士の一段。 詞書によると、館の主である 大舎人入道の夢にでてきた武士 。 人の目には見えない疫鬼、 夢の中でだけみることができる 武士の一団も疫病が可視化されたもの。 14世紀初頭の制作された時代、 "鬼と武士"に異形なる存在 に、 疫病の姿が表されているのです。※3 実は 武士の登場は巻二 にみえ… 残虐なシーンを描き出し、 武士が世を騒がし、 厄災を撒き散らす存在 として、 共有されていたことを 焼き付けさせていました。 巻六第一段には、 地獄の表現 がみられます。 実はこのシーンは、 春日明神のおはからいで 地獄行きを逃れた男。 春日明神の案内で " 地獄ツアー "の一幕なのです。 この男は 興... 続きを読む
『新島襄の愛した石たち』の出版に寄せて 投稿者: 虎次郎 - 12月 21, 2025 2025年11月に 同志社大学地学研究会 さんが、 『新島襄の愛した石たち』 を 発行されました。 冒頭に "新島襄の戸棚" の写真が 掲載されています。 2011年の ホームカミングデー で 新島旧邸 を見学したときの一枚です。 ブログ にはこう綴っていました… 「 隅には化石や鉱石などの 棚があります。 実は新島襄は アーモスト大学の理学コースで、 地質学を学んでいたようです。 」 『新島襄の愛した石たち』 に 掲載されたページがこちらです。 『新島襄の愛した石たち』 より 以下引用させていただきます。 「その後、 新島八重 夫人は、 1907(明治40)年に京都御所の すぐ東隣にある 新島襄旧邸 を 同志社に寄付し、 1932(昭和7)年6月14日に 逝去するまで、そこに住んでいた。 この新島襄旧邸に、 岩石や鉄物や貝などの 標本が存在することは、 余り知られていない。 新島襄がアメリカに渡り すっかり虜になったと考えられる 石集めや、ちょっとしたものを 持ち帰る癖によって集められた標本が、 戸棚に収納されていた。 書斎の机には石が文鎮代わりに 四つ置かれていた。 」 新島襄旧邸 にあった 「自筆文書」などの資料は、 1942(昭和17)年に、 今出川学舎旧図書館啓明館の そばにできた 遺品庫 (ヴォーリズ建築事務所設計)に 収納されている。 しかし、 新島襄旧邸の 「新島襄標本」 は 遺品庫に入れられていない。 新島襄の死後もずっと 新島襄旧邸の戸棚に収 納されたままであった。 このように扱われていたということは、 これらの標本類は、 あまり価値がないものと 見なされていたのであろう。 新島襄旧邸は、社宅として 使われていた時期もあったが、 1970年頃には「新島襄旧邸」として 整備されていたようである。 「新島襄標本」 の管理も旧邸の管理に 準じていたと考えられる。」 1993年発行の 『新島襄ーその時代と生涯』 には、 このように綴られています。 「春夏の休暇中は、かなり長期にわたる 徒歩旅行に出かけている。 鉱物採集や各地の見学が目的であった。」 ブログの "新島襄の戸棚" の写真を 見つけていただいたのは、 同志大学地学研究会OB の方より、 今年の3月にメールが届きました。 「新島旧邸の戸棚にあ... 続きを読む
湖東三山のもみぢば〜松峯山 金剛輪寺 本堂大悲閣へ 投稿者: 虎次郎 - 12月 17, 2025 金剛輪寺 は山号を 松峯山 、 開山は 聖武天皇の勅願 で 行基 菩薩により741年(天平13)。 比叡山より 慈覚大師 が来山し、 天台密教の道場に、 天台宗の大寺院となりました。 本堂内陣の左手に祀られる 開祖 行基菩薩 と 中興の祖 慈覚大師円仁 。 12世紀末から13世紀の造像で、 数少ない大師の古像として 貴重な存在となっています。 そして 比叡山中興の祖 、 慈恵大師 良源像 。 観音様の化身 とも言われ、 観音三十三身の数、 あるいはその倍数の像を造立、 ご利益を求めることがあったとか。 惣門 には" 聖観音 "の大きな提灯、 " 黒門 "とも呼ばれ、 1794年(寛政6)に建立されたもの。 近江西国 第十五番の御詠歌 「 分け入りて 仏の恵み 松の峰 嵐も法も 声かとぞ聞 く」 山門から本堂までの長い石段、 山岳城郭であったころの趣を 今なお残していました。 まさに "分け入りて"の本堂へ … 石段を登りつめたところに、 僧の機智により織田信長の 焼き打ちによる焼失の 難を免れた本堂大悲閣、 三重塔、二天門があります。 長い山道を登ると最後に 虎次郎ゴロシの石段、 二天門 を見上げたころは、 バテバテで写真なし。 当初は 八脚門の楼門 でしたが、 のちに上層が失われたそうです。 自然石が礎石に用いられ、 和様であって室町時代のもの。 右に 増長天 をまつる。 左に 持国天 、いずれも 金剛柵 が 設けられています。 本堂 大悲閣 入母屋造りの檜皮葺で 七間四面の豪壮な建物です。 " 大悲閣 "とは慈悲の仏である 観音さまのいらっしゃる所 、 全国各地に大悲閣がありますね。 本堂外陣の正面の扁額は、 聖武天皇の宸筆 とされる。 宸筆(しんぴつ)とは、 天皇(天子)ご自身が書かれたの意。 1952年に国宝指定、 東京オリンピック で、 日本建築の代表として精巧な 10分の1の模型が制作され、 東京国立博物館の記念展 で展示、 海外からの人たちにも 多く知られるようになったそうです。 文永弘安の両役 に鎌倉の 北条時宗 が 近江守護佐々木頼綱に命じ、 近江国中の祈祷寺社に 元軍降伏の祈願を修せしめ 元軍が敗北した。 そこで、 守護 佐々木頼綱 は 本堂を再興したと伝わります。... 続きを読む
竹生島に渡る〜弁財天のお姿と琵琶湖 投稿者: 虎次郎 - 11月 30, 2025 琵琶湖 の北に厳かに浮かぶ 竹生島 へ いってきました。 長浜港からおよそ35分の船旅 (神を) 斎く(いつく)島 に由来し、 " いつくしま "が" つくぶしま "と変じ 竹生島 になったと言われています。 島全体は一年中、 常緑樹で覆われているのが 当たり前の姿だったのですが… 1970年代の植生調査資料によると、 暖帯の タブノキ や スダジイ が繁茂、 ただ2008年ごろには カワウの サギのコロニーへの侵入 が 激しくなり、あちこちの斜面が 丸裸状態となってしまっていたとか。 カワウの捕獲作戦で植生の繁茂が復活、 島全体が緑に戻されたそうです。 「 琵琶湖周航の歌 」の歌碑がお出迎え、 こちらは4番 「 瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの 竹生島 仏の御手に いだかれて ねむれ乙女子 やすらけく 」 とあります。 京都大学 の前身 第3高等学校 に 伝わる漕艇行事であった琵琶湖周航、 1918年(大正7)に作られ、 学生から広く全国民の愛唱。 加藤登紀子 さんをはじめ、 多くの歌手に歌い継がれた学生歌。 弁才天 と竹生島の 浅井姫命 が 習合の竹生島信仰、 『 竹生島縁起 』によると、 開基は奈良時代の 行 基、 平安時代中期には天台学の 修練の場となり、 10世紀中期には天台寺院である 比叡山の末寺 としての地位が確立。 西国三十三所観音巡礼 の 一つとしても信仰を集めています。 竹生島の弁財天は唯一、 ” 大 ”の字をつけ 大弁財天 。 《 木造 弁才天坐像 》 宝厳寺蔵 長浜市指定文化財 室町時代 頭上に 翁面白蛇身の宇賀神 、 前面に 鳥居 を配した 宝冠を載せる八臂の姿。 弁才天はインドの仏教の 水神" サラスヴァティー "。 像は銘記によれば、 室町期 弘治3年(1557)、 江州浅井郡河道村の 惣兵衛が奉納したもの。 中世における湖北の信仰 を 伝えています。 《 弁才天像 》 南北朝時代 絹本着色 竹生島に伝来する3幅の 弁才天像のうち一つ。 八臂の手に宝剣や宝珠、 輪宝などを持ち台に坐す姿、 その下に稲穂の上に とぐろを巻く宇賀神を配す 。 眷属である十五童子に 囲まれています。 《 弁財天像 》宝蔵寺蔵 琵琶と撥を持つ姿 二臂弁才天 、 最もよく知られた弁才天。 な... 続きを読む
竹生島に渡る~宝厳寺唐門から観音堂・舟廊下へ 投稿者: 虎次郎 - 12月 13, 2025 宝厳寺唐門 は背後に観音堂が 接続されて玄関となっています。 一間一戸向唐門で檜皮葺、 組物は出組、軒は一軒繁垂木… " 一間一戸向唐門" とは、 中央が一間で両側が一戸の構造、 正面に向唐破風がつく門のこと。 " 出組 "は壁から外側に直角に 突き出した1つの肘木と斗の 組み合わせをいいます。 " 一軒繁垂木 "とは、 間隔を詰めて並べた垂木の 一段配置を指します。 秀吉を祀る豊国廟の社僧の日記 『 舜旧記 」によると、 慶長7年(1602)6月11日の条に、 「 今日ヨリ豊国極楽門、 内府ヨり竹生島へ依寄進、壊始、 新神門、大坂ヨリ被仰了 」。 極楽門は秀吉築城の大坂城、 極楽橋であったと推定されています。 桃山文化の装飾彫刻 は、 6年かけて修理保存事業が 2020年春に終了、 美しい姿になりました。 正面虹梁 (こうりょう)、 剥落が進行しているときのもの、 牡丹をはめ込んだ大型の蟇股、 尾長島 を両脇に配す。 鳳凰に 鸞 (らん)と呼ぶ場合もあるが、 尾長鳥の 錦鶏と銀鶏 されるとか… 錦鶏は王者の装飾に用いられ、 秀吉に関わる建築に相応しい。 豊国神社 唐門 は 鶴で桐 、 秀吉といえば桐がシンボルなので、 極楽門だから極楽に誘うので、 牡丹に尾長鳥 としたのかも… 大阪城天守閣 蔵の《 大坂城図屏風 》」、 唐破風造・檜皮葺で 二階に望楼をのせた廊下橋という 特殊な形式で描かれています。 相国寺鹿苑院の歴代院主の日記 『 鹿苑日録 』に極楽橋に 望楼があったことが記されています。 2006年にオーストリアの エッゲンベルグ城で発見の 《 豊臣期大坂図屛風 》。 渡り口の破風下には彫刻、 側面の壁には極彩色の 花卉の彫刻がみえる。 彩色された 牡丹唐草 の彫刻 唐門にはいったとこにある蟇股、 松との組み合わせで鷹 の彫刻、 右側は白鷹なのでしょうね。 蟇股には松でよく見ると小鳥の姿、 両脇の彫刻から 鷹の子 と思われます。 唐門の内部天井は、 曲線形の 茨垂木 (いばらたるき)の 化粧屋根裏となっており、 菊文様の飾金具を取り付け、 花菱をいれた 七宝繋文様 が 描かれています。 賓頭盧 さんがお出迎え こちら観音堂の折上格天井、 天井板には菊・桐・牡丹などが 極彩色で描かれていて、 格縁は... 続きを読む