ウチナー・グスクを征く⑥ 座喜味城その2


城壁と青い空が映える座喜味城
とにかく石組みの美しさが
秀逸でした(・ω・)v

面積は7386㎡で琉球列島では
中規模レベルなのですが、
全体の46%が城壁部分
占めているそうです。

高い石垣が構築されている
ということは、
基底部分の幅が必然的に
大きくなっているのでして、
石組根石は石灰岩岩盤に
溝を彫り込んだ中に
据えられるといった、
丁寧な基礎工事が施された
ことを意味しています。

城壁の上に上がることができ、
ほとんどすべての部分で
今でも人が往来できるほどの
空間が保たれていました。

一の郭のアーチ門の
右手に繋がる通路…

北西方向に続くが…

最奥部は袋小路なのです。
誘導された寄せ手は
一の郭からの攻撃に晒され、

最終的には追い込まれ、
殲滅させらるのです。

ただ…細やかな
防御体制でありながら、
短命なグスクだったのです。

毛氏先祖由来伝』によると、
このグスクを築いたとされる
護佐丸という按司は、
中山の尚巴志王による
1429年の三山統一の後、
いまの恩納村 北部の
山田グスクに移るのです。

1458年に阿麻和利
滅ぼされていることから、
護佐丸が座喜味グスクに
在城したのは20年余り、
その後は
グスクとして機能していたとの
記録がないということなどです。
城としての役割は短命でした。

一の郭に残る
石灰岩らしい黒い礎石。
史跡整備により
整えられたものです。

護佐丸は有力按司の1人として
尚巴志の連合軍に合流。
記録によれば20歳代にして
第2軍の総大将だったとか。

その後の護佐丸…
阿麻和利に急襲され、
中城城で自害
生涯を終えたそうです。

こちらは…1843年
慶賀使として江戸上りし
無事に帰国したことを
記念したとされる石柱。
座喜味親方
寄進灯籠」だったそうで、、
座喜味親方は護佐丸の子孫
無事任務を果たせたお礼として
城内の神に寄進したものです。
ここにかつては、グスクの火神
祀れられていたのかも…

一の郭にある三角点
戦前は参謀本部陸地測量部
設置管理だったもの。
花崗岩などの硬石が用いられ、
石の頂部には十字の切り込み。
かつては地図は戦略上の
重要な要素の一つでした…
戦後は国土地理院
管理となりました。

グスクを取り囲むのは琉球松
やや黒色の木肌は、
本土のクロマツとアカマツの
中間くらいの印象です。
いつもみる松よりも
細長い感じがしました。

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