岐阜をつくねる② 金華山のこと
ぎふ金華山…
初夏に満開となるツブラジイが
山を黄金色に染めること…
その名の由来はそんな理由だとか。
長良川温泉 十八楼さんのTwitterより…
黄金期の金華山
1972年に岐阜市の木に選定、
スダジイとあわせ"シイノキ"と
呼ばれることが多いのですが、
スダジイよりも実がまるいので、
円=ツブラの名が付けられたそうです。
初夏に一斉に開花の様を眺めた
粋人が金の花咲く山として、
"金華山"と呼んだのは信長?、
佳名であるため明治以降に定着とか。
現在は閉鎖されていますが、
1943年(昭和18)に岐阜城天守を借用、
ここで気象観測をしていたそうです。
旧日本陸軍の観測を引き継いだもの、
ただ2月17日に発生の放火による
岐阜城炎上発生時に、
観測の宿直者に嫌疑がかけられる
ということがありました。
この建物は同年2月24日に、
稲葉山観測所として太鼓櫓跡に
設置されたものですが、
後に金華山分室と改称されます。
1948年9月1日で閉鎖され、
いまは使われはいないそうです。
岐阜城は1600年(慶長5)の廃城以来、
山頂には建物がないままでしたが、
1910年(明治43)に岐阜保勝會により、
復興天守が建てられたのです。
初代復興天守は木造トタン葺きの
3層3階で内部は吹き抜け、
日本で最古の復興天守。
いわゆるハリボテ構造…
「石垣を改築し規模を
小にして原形に改むる」とあり、
とにかく天守をと望んだ、
戦後の一面を感じさせるもの。
そもそも"岐阜"という地名、
1567年(永禄10)に信長が
斎藤龍興と戦って勝利を収め、
織田城下の"井之口"を"岐阜"に改称、
"稲葉山城"も岐阜城と改められます。
尾張 政秀寺を開山した沢彦宗恩が、
「岐山・岐陽・岐阜」の3つの提案、
信長自身が選んだとされる説などなど、
「周の文王が岐山(きざん)から起こり、
天下を定める」という中国の故事、
孔子生誕地「曲阜(きょくふ)」から、
太平と学問の地への願い…
"岐"は分かれる という意味に加え、
"阜"は大きいとか おか=丘・岡…
信長が金華山を居とした時期は、
時代の大きな分岐点でありました。
現復興天守は1956年(昭和31)再興、
岐阜城再建期成同盟会が集めた
市民、財界からの募金で建設。
天守閣の設計は名古屋工業大学の
城戸久名誉教授が設計されたもの。
加納城御三階櫓の図面などを参考?
なぜ "加納城"???
徳川家康 天下普請の平城で、
江戸時代には加納藩の居城は、
廃城となった岐阜城山頂にあった
天守を移築したと伝えられるから。
名古屋城は耐震診断により
閉鎖となっていますが…
岐阜城も2018年度に全階で
耐震補強が必要と判定されています。
最上階が大規模地震で倒壊の危険性…
2023年より耐震補強工事、
この眺望もしばらくはオアズケとか…
眼下に長良川と岐阜の町並み
そして名古屋を遠望
信長入城時に造られたと
伝わる石垣…
本丸井戸跡
金華山は標高328mに過ぎない山、
なのに高い山と印象付けられるのは、
北を長良川の川面からそそり立つ…
南側を大岩壁によって濃尾平野に。
そそり立つ独立した山だから
その昔は火山体??
"金華山のチャート"はまさに、
山の成り立ちの大きな要素なのです。
チャートは海洋で浮遊生活していた
放散虫という原生動物の堆積が元、
石英と同じ成分の硬い岩石をなす。
金華山の高く残されたチャートの
屋根がさらに孤立するように、
長良川によって深くえぐられ…
周囲の平地部からそそり立つ
"高い山"になった理由なのです。
一ノ門から続く"伝 馬場跡"あたり…
江戸期絵図に"馬場"と記される。
この先は急峻な石段が続く、
「大下馬ともいう」ともあり、
降りた馬はここに繋いでいたとか。
岐阜城の石垣は1539年(天文8)ごろの
斎藤道三から始まる後斎藤期と、
1567年(永禄10)からの信長期以降の
大きく2つに分かれることや、
大型の石材を使用した巨石石垣が
あることが近年の発掘成果で、
明らかになっています。
後斎藤期は角張った横長の石材を
隙間なく垂直積み。
信長期以降は角が丸く比較的大きな
石材が使用されているので、
隙間を埋めるための間詰石が
入念に詰め込まれていて、
ゆるやかな傾斜をつけて
積まれているのです。
切通とも堀切ともいわれる谷間は、
敵の侵入を阻害するために、
山の尾根筋を深く削り取った所。
ただ岐阜城では切り立った天然の要害、
そのようなロケーションでも
信長はさらに堅固な城造りを
追い求めていたようでした。
眼下に長良川と岐阜の町並み
そして名古屋を遠望
信長入城時に造られたと
伝わる石垣…
本丸井戸跡
金華山は標高328mに過ぎない山、
なのに高い山と印象付けられるのは、
北を長良川の川面からそそり立つ…
南側を大岩壁によって濃尾平野に。
そそり立つ独立した山だから
その昔は火山体??
"金華山のチャート"はまさに、
山の成り立ちの大きな要素なのです。
チャートは海洋で浮遊生活していた
放散虫という原生動物の堆積が元、
石英と同じ成分の硬い岩石をなす。
金華山の高く残されたチャートの
屋根がさらに孤立するように、
長良川によって深くえぐられ…
周囲の平地部からそそり立つ
"高い山"になった理由なのです。
一ノ門から続く"伝 馬場跡"あたり…
江戸期絵図に"馬場"と記される。
この先は急峻な石段が続く、
「大下馬ともいう」ともあり、
降りた馬はここに繋いでいたとか。
岐阜城の石垣は1539年(天文8)ごろの
斎藤道三から始まる後斎藤期と、
1567年(永禄10)からの信長期以降の
大きく2つに分かれることや、
大型の石材を使用した巨石石垣が
あることが近年の発掘成果で、
明らかになっています。
後斎藤期は角張った横長の石材を
隙間なく垂直積み。
信長期以降は角が丸く比較的大きな
石材が使用されているので、
隙間を埋めるための間詰石が
入念に詰め込まれていて、
ゆるやかな傾斜をつけて
積まれているのです。
切通とも堀切ともいわれる谷間は、
敵の侵入を阻害するために、
山の尾根筋を深く削り取った所。
ただ岐阜城では切り立った天然の要害、
そのようなロケーションでも
信長はさらに堅固な城造りを
追い求めていたようでした。